現地隊員レポート             「りる」第58号より 

                                                    イエメン/エジプト   S.A.
                                                             平成20年度3次隊/平成21年度8次隊
                                         
青少年活動   

 

『2か国×2年半の協力隊生活を振り返って』

 皆様、こんにちは。前号では私の最初の任国であったイエメン共和国について、少しご紹介させて頂きました。今回は任国振替で派遣となった同じ中東のエジプト・アラブ共和国での出来事をご紹介して参りたいと思います。

((1)エジプト編:2010・3・26〜2011・7・4)

 任国振替で派遣先に決まったのは同じく中東のエジプト共和国でした。最初にエジプトと聞いて、思い浮かんだのはピラミッドとナイル川のみ…。日本への帰国前にイエメンでJICAの方とお話しした際、(職種的に)振替で中東に残れる可能性は少ないと言われていたので、まさにエジプトへの派遣は青天の霹靂でした。

アラブに戻れることは本当に嬉しかったのですが、遺跡には全く興味がなかった私。そんな私が、ピラミッドから徒歩圏内のところに住み、毎朝ピラミッドを見ながら配属先に通うことになり、今となっては本当に貴重な経験だったと思います。

地中海と紅海に面しているエジプト。紅海でダイビングをするのが一番のリフレッシュでした!この写真はクレオパトラも愛したという場所です(地中海)。

 再派遣当初、残り任期が約9か月しかなかったことに加え、今までずっと一緒だったイエメンの同期隊員達からひとりだけ離れてしまったことで、私は不安でいっぱいでした。そんな状況の中、私を奮い立たせてくれたのは新しい配属先が「ストリートチルドレン」の通所施設であるということでした。私が元々協力隊を志したのは大学生の時にバングラデシュでストリートチルドレンの子供達と出会ったことがきっかけでした。

はじめての飛行機はじめての海外で行った先がバングラデシュ。当時の私にとっては目に映るもの全てが衝撃的でした。外に出るとあっという間に人々に囲まれる(当時のバングラデシュでは今以上に外国人が珍しい存在だったようです)9誌とこに行っても物乞いをしている人達やストリートチルドレンの子供達が沢山いる。私は何の為にここに立くたのだろう?見物しに来ただけ?自分の無力さを感じました。

その記憶がずっと頭の中にあって、いつか彼らの為に働きたい、力になりたいと思っていたのが、協力隊受験のそもそものきっかけであり、それがちょうど10年後に任国振替でという思わぬ形で実現することになるなんて、運命とは本当に不思議なものです。

しかも、偶然にもフライトは自分の誕生日!単純な私は「これは絶対に運命だ!!」と信じ、新しい任国工ジプトへと旅立っていきました。

毎朝、ここを歩いて活動に行っていました。自宅から通りに出てすぐの景色。ギザのピラミッド。

 そして、エジプトに到着。実際に目にしたエジプトは想像していた以上に発展していたのでとても驚きました。スターバックスコーヒーもマクドナルドもケンタッキーもあります。女性達がカラフルな洋服を着て、顔を出して街中を歩いています。カップル達も街中には沢山おり、イエメンでは考えられない光景だらけ(その時の私は全てがイエメンスタンダードになっていたのだと思います)

。ZARAやH&Mが入った大型ショッピングセンターや映画館もありました。イエメンではいつもアバヤ(全身真っ黒の洋服)を着ていた為、「おしゃれ」な洋服を持っていっていなかった私。みんなが本当におしゃれでとても焦ったことを今でもよく覚えています。

 エジプトではまた語学訓練からのスタートでした。アラビア語にはフスハーという標準語とアーンミーヤという方言が存在し、私達が訓練を受けた二本松訓練所でもフスハークラスとエジプト語を勉強するクラスは別でした。しかし、私はイエメン(方言もありますが、標準語に近い)派遣だった為、方言色の強いエジプト語はまったく勉強をしておらず、最初は苦戦を強いられました。

「ミルフ」と「マルフ」の発音の違いでスーパーに行っても塩さえ買えなかったり、活動が始まっても子供達に消しゴムやノートという簡単な単語さえも伝わらなかったりと試行錯誤の日々。

何度もくじけそうになりましたが、その分新しい単語を習得した時の喜びは2倍でした。両方を知っているからのメリットもありました。アラヴでは各国に方言が存在するもののテレビのニュースや新聞はフスハー、オフィシャルな場所で使われるのもフスハーです。なので、フスハーが使われている場所に出くわすと少し優越感に浸っていたような気がします。

 イエメンでの活動を終えてから約3か月後、ようやぐ活動再開となりました。新しい活動先は国際NGOが運営するストリートチルドレンの通所施設。私がそこで求められたのは子供達のアクティビティーの充足でした。皆さんは「ストリートチルドレン」という言葉を耳にすると、どんな子供達のことを想像しますか?「家もない、家族もない、道端で生活をしている子」とイメージされる方が多いのではないでしょうか?

実際にそのような子供達もいるので、それも正解だと思います。しかし、私の活動先にいた子供達はほとんどが帰る家がある子達でした。

帰る家はあるけど、貧しくて学校には行けない。だから私の活動先に通う。貧しくて食べさせていけないから預ける。親に暴力をふるわれるから家には帰りたくない。だからここに来る。そんな子供達が9割を占めていました。年齢は6〜18歳。男の子も女の子もいました。毎日通ってくるのはだいたい20人〜30人でそのうち約10人の男の子達は併設されているシェルター(入所施設)で寝泊りをし、そこから通ってきていました。

活動先にて日常の一コマ。後ろにいる女の子シャルバートは私の髪にいたずらをしようと目論んでいます!

 活動先の通所施設は9時〜16時まで開かれており、基本的には誰でも来ることが出来ました。年齢や進度で3つのクラスが作られていて、そこでアラビア語、英語、音楽、美術、家政などの授業を受けます。そして、朝食と昼食が無料で食べられます。育ち盛りの男の子達がほとんどだったので、食事はいつも足りないくらい。みんな気持ちいいくらい沢山食べていました。

子供達にはひとりひとりお絵かきファイルを作り、仕上げた作品をブックにして残していきました。そして、帰国前にはぬりえセットをそれぞれにプレゼント!その時の嬉しそうな写真です。

 私のそこでの活動は主に大きく分けて3つありました。まず一つ目は空き時間の充足。

活動先はピラミッドのすぐそばということで土地柄もあってか、子供達はよくピラミッドの絵を描いていました。みんなお絵かきが大好き!

 子供達には授業と授業の間に休み時間がありました。その休み時間は、先生にとっても休み時間で、誰も子供達を見ていません。なので、空き時間を使って私はいつも子供達と絵を描いたり、塗り絵をしたりして過ごしました。ゲームをしたり、クイズをしたり、色々と試行錯誤はしてみたのですが、子供達が一番好きだったのがお絵かきで、ひとりひとりに自分の塗り絵(お絵かき)ファイルを作り、記録として残していけるようにしていました。

 そして、2つ目は授業のアシスタント。主に家政の授業に入り、ミサンガや簡単なアクセサリーを子供達と作っていました。作った作品はバザーに出品したり、展示会に出したりもしていました。そして、3つ目。これが一番大事なこと。子供達と終日一緒に過ごすことで子供達の変化に気づき、身近な存在でいられるように気をつけていました。またしつけも然り。手洗い、あいさつ等も日常の中で習慣として身につけてもらえるように指導していました。

隊員で構成していた人形劇集団マディーナ。この日は幼稚園で劇をしました。

子供達と一緒に過ごした約10か月は本当に濃い、密な時間でした。問題を抱えた子供達が多いので、毎日何かしら問題が起き、悩むことも沢山ありました。けんかの仲裁に入って、自分が痛い思いをすることもありました。でも、それ以上に毎日一緒に絵を描いて、一緒に遊んで、一緒に笑って過ごしたあの時間は私にとって本当に幸せな時間でした。

昨年の秋にはストリートチルドレン関連の4施設を集めて、合同の運動会を開催しました。

ストリートチルドレン対象運動会にて。初めての綱引き。引率のスタッフ達も子供達以上に本気です!

JICA、日本人学校、日本人会、隊員仲間、エジプト人ボランティア・・・数えきれない沢山の方々のご協力のもと、開催することが出来た運動会。子供達はきらきらしていました。普段、ありあまっているパワーを思う存分発揮して、駆け回っていました。この運動会を通して、私は改めて思いました。彼らにとって必要なのは子供らしくいられる時間です。彼らが抱える問題を解決することは容易ではありません。

だけど、それを超えるような夢や目標、楽しみを彼らに見つけてもらえたら、きっと彼らは毎日力強く生きていってくれるでしょう。彼らが安心して生活出来るようにするには、貧困・暴力等の家庭環境の改善と教育環境の整備、両方からのアプローチが不可欠なのです。

 そんな穏やかな時間を子供達と過ごしていた中、2010年の末から中東では民主化デモが続々と起こりました。皆様もご存じかと思いますが、チュニジア、エジプト、リビア、クウェート、シリア、イエメン・・・と次々に波及し、先日はリビアでカダフィ政権が事実上の崩壊を迎えました。この「アラブの春」と呼ばれる民主化デモの影響を私自身も受けることになりました。

本来であれば、2011年の1月頭に2年の任期を終えて、帰国する予定だったのですが、退避期間で活動期間が短かったことと、エジプトでの活動で行いたいことがまだ沢山あった為、任期を半年間延長していました。

そんな延長期間が始まって間もなくの日本退避。本当にショックでした。チュニジアで最初にデモが起こり、チュニジア隊員が国外退避になったことを知った時、私はちょうど前年の11月に任国外旅行でチュニジアを訪れていたので、「あんなに素敵な国がそんなこと(銃撃戦等)になっているなんて信じられない」と驚き、案じていました。でも、今思えば、まだどこか他人事で、まさかエジプトも同じようなことになるとは思っていなかったのだと思います。

 その数週間後の1月25日に最初の大規模デモが起こり、同じく28日にはネットと携帯電話が大統領の命令で遮断、デモは一気にヒートアップしました。人々は自由を求めて、毎日抗議を続けました。あらゆる国の機能が麻痺し、誰もその先のことなんて予想出来ない状況に陥っていました。民衆の願いはただひとつ、ムバラク元大統領の辞任。

そのたったひとつの目標に向Lかって、ここまで国民が一致団結出来るなんて、不謹慎かも知れませんが私はすごいと思いました。

バザーでは子供達と作った作品を販売していました。これは日本人会夏祭りの時の写真。

イエメンでの経験があったので、戦車や銃声に恐怖を感じることはありませんでしたが、私はこの時パスポートも持たずに任地を離れており、自分のよみの甘さ、思慮の浅さでJICAの方に多大なご迷惑をおかけしてしまったことは本当に反省すべき点でした。危機管理というものを改めて考えさせられました。

 2011年2月に日本に3度目の退避をし、その期間中に東日本大震災が起こりました。短期間ではありましたが、JICAを通して、被災地にボランティアとして入りました。課題山積の中、エジプトに戻ることに後ろ髪をひかれる思いもありましたが、エジプトでの活動を中途半端に終わらせることは出来ないという思いがあり、約3か月の退避の後、エジプトに戻りました。

思いがけない3度目の退避でまたエジプトで過ごせる時間は減ってしまいましたが、任期の最後をエジプトで迎えることが出来、本当に有難く思いました。そして、可愛い子供達や大好きな同僚達、仲間達に見送ってもらえて、私は本当に幸せでした。

活動最終日、小さい子の音楽の授業にて。同僚達だけではなく、子供達も送別会をしてくれました。大好きな子供達とお世話になったJICAのスタッフさん達、大好きな人達に囲まれて満面の笑み。

 このようにして長いようで短かった私の2年半に渡る協力隊生活は終わりました。沢山笑って、沢山悩んだ2年半。私がここまで来ることが出来たのは出会った方々が本当に素敵な方達ばかりで、あらゆる面でサポートして下さったからだと思います。家族、友人、育てる会の皆様、JICA関係者の皆様、私のことを温かく見守り、支えて下さって本当にありがとうございました。

これからも協力隊で培った経験を生かし、国際協力に何らかの形で携わっていけたらと思っています。

革命後、エジプトに戻ると街の至る所がエジプトカラー(赤、白、黒)にペイントされ、愛国心を表す言葉が沢山書かれていました。