「テュニジアSE通信」(任地事情編) 「りる」第20号より
テュニジア J.T.
平成9年1次隊
システムエンジニア
1、はじめに
平成十一年三月。ついに一九九九年になってしまった。残り任期も四ヵ月。既に隊員間ではよく言われてる「帰国モード」に入っている。日本での会社員経験から、四ヵ月でできることなんてたかが知れていることも判っている。だからもう新たなことには着手せず、まとめることばかり考えている。さて、一年八ヵ月を過ぎた今、当初程の新鮮な体験はあまりないが、幾つか印象に残る事を書きたいと思う。
テュニジア ル・ケフ大学2、両親来訪
昨年十一月、私の両親がテュニジアにやってきた。日本からのパックツアーでテュニジア国内を一週間観光した後、帰りの便をキャンセルして我が任地ル・ケフに来る事にした。テュニジアはヨーロッパ主要都市から飛行機で二時間程度。地中海に面したリゾート、古代カルタゴやローマ時代の遺跡、モスクやメディナ(城壁に囲まれた旧市街)に代表されるイスラム建築、ラクダや四駆でのサハラ砂漠ツアー等、観光資源には恵まれている。
治安もいいし、先進国より物価も安い。そのためバカンス・シーズンにはヨーロッパからの観光客で溢れかえり、観光はこの国の主要産業の一つとなっている。日本にとっての、グァム、サイパンのような場所と言えよう。観光地では先進国からの客を受入れるための設備は整っている。ホテルも政府により五ツ星から無星までランク付けされていて、三ツ星なら日本円で二千五百円程度出せば日本のビジネスホテルよりゆったりしていて、熱いお湯、洋式水洗トイレ、トイレットペーパーもある部屋に泊れる。
しかし、である。私は青年海外協力隊員である。テュニジアではたまたま観光地でもある町に派遣されている隊員もいるが、本来隊員は観光地へ派遣されるものではない。無論、「農業大学のSE」である私が観光地に住んでいるわけはない。
我が家はまだいい。洋式水洗トイレでトイレットペーパーもある。(お湯は電気式給湯器なので六時間程度待たないと熱くはならないが。)問題は来る途中、そして任地である。幸いテュニジアにはマラリア等の風土病は特にない。
しかし、私は慣れたが、食事は辛いし生野菜は心配。トイレは和式の様にしゃがむトルコ式、または椎名誠のロシア紀行のようななぜか便座が無い洋式トイレ。勿論紙でなく水で洗い流すため、良ければ金属製のホース付きの蛇口が、普通は空缶かペットボトル等の容器が置いてある。おまけにこの国は殆ど英語は通じない。そんなところへ両親が来る。何回か海外旅行に行っているとはいえ、途上国は初めてである。実のところ、私は両親受入れに当たってはかなり心配であった。
しかし、そんな心配は無用であった。一週間のパックツアーを十分に堪能していて、観光地に関しては私よりも詳しくなっていた。長旅で疲れていると思ったが、任地ル・ケフでは初雪が散らつくなか街中を歩き回ったり、みぞれの中の山道をオリーブの実を積んだトラックの荷台に乗せてもらったり、杉原・柴山両ル・ケフ隊員を交えて夜更けまで話し込んだりと、寧ろ私の方が疲れて昼寝をさせてもらう位だった。
結局ル・ケフでは四泊したが、一泊を我が家、三泊を同任地の杉原隊員宅という隊員と全く同じ生活をクリアしてしまった。今回はパックツアーでテュニジア国内を周遊するというのに、醤油・味噌汁・日本酒等、テュニジアにおける貴重品で満杯にしたリュックサックを背負って来てくれた。スーツケースも半分は日本食や救援物資であった。
通常、海外旅行帰りの荷物はお土産等で重くなる筈なのに、今回は遥かに軽くなっていた。今更ながら呆れる程元気な両親にこの場を借りて尊敬と感謝の意を表したい。
テュニジア ル・ケフ大学3、カウンターパートのムラッド氏のこと
相変わらずの親馬鹿ぶりを十二分に炸裂させている。
朝一番の会話は、
「おはよう。元気か、ジュン。昨日はな、・・・」
と、「娘が」という主語なしに、それは自明の物として始まる。四月一日生まれの彼女はそろそろ満一歳。掴まり立ちを始める頃であり、上の歯も生えてきたらしい。
テレビの歌に合わせて唄うらしい。彼が家でパソコンを打っていると、お父さんの真似をしてキーボードを打ちたがるらしい。だっこしてやると彼の眼鏡にいたずらしたがるらしい。彼が家に帰ると、声を聞いてお父さんとわかって喜ぶらしい。
仕事に行こうとすると、雰囲気を察して泣き出すらしい。彼が彼のお母さんに文句を言うと、娘はおばあちゃんの味方をして彼に抗議する素振りを見せるらしい。最近「バイバイ」を覚えたらしい。・・・わかったわかった。そうかそうか。
テュニジア人は日本人に比べて甘やかし過ぎとも思えるほど子供好きである。テュニジア人のお父さんはみんなこうなのか、と思っていたがそうではないことが判明した。実は学長の家にも赤ちゃんがいることを最近知った。三人目なのだが、私は生まれていた事すら知らなくて、家に招かれて初めて知った。勿論学長も赤ちゃんをあやす。しかし、来客や自分のことをそっちのけでべたべたすることはない。その校長の子育てに、私は安心感すら覚えた。
子供がかわいい、というのは分かる。しかしムラッドは「娘のためなら死んでもいい。」と真顔で私の目を見つめながら力説する。以前、「テュニジア人は家族を大切にする。」と書いた。確かにそれは間違ってはいない。但し、修正させてもらいたい。
「そんなテュニジア人の中でも、ムラッドは特に家族を大切にする。」
別に彼を非難しているわけではない。寧ろそこまでできることは尊敬するに値する。でも例え子供がいたとしても、私には恥ずかしくてそこまではできないけれど。
カウンターパートのムラッド氏宅4、雪が降った
ル・ケフは山間部・高地・高緯度なのでテュニジア国内では寒冷地である。冬場の朝は氷点下になる。赴任当初から現地の人に「冬は雪がこんなに積もって大変なんだぞ。」と散々脅されていた。しかし結局昨シーズンは、降りはしたが積もりはしなかった。「またテュニジア人は大袈裟なんやけん。」と私は本気にしていなかったのだが、実は彼らはとても正直だったのだ。
一月末。腹の底に響くような寒い日。朝からの雨が午後には雪に変わった。夕方にはもう数センチの積雪。その後も降り続き、夜には十センチ以上。案の定、送電線が雪の重みで垂れ下がり停電。「ろうそくの光、窓の雪」でふみ書く夜を過ごすことになってしまった。
翌々日の朝は水道管凍結で断水。最低気温は氷点下六度、昼でも気温は三度だった。二月中旬にもまた積雪五センチ。路面凍結で通勤バスが来ないので、平日にもかかわらず学内は閑散としていた。
アフリカ大陸且つ地中海沿岸でまさか雪の生活を過ごす事なんて、任国がテュニジアと決まった当初も、さらには赴任以降も全く予想だにしていなかった。そしてそれは単なる思い込みと情報収集不足の結果であることを思い知らされた。アフリカだからといって年中暑いとは限らないのである。
5、むすび
正直、残りの任期を逆算すると焦りを覚える。課題は、急いで今まで私自身の手でしてしまったことを、いかにカウンター・パートやその他の人達が私抜きでできるようにするか、である。既にある程度私がいたことによる成果は出ていると思う。しかし、私がいなくなった後でもそれを継続していける体制までは構築できていない。現在フランス語でのパソコン解説マニュアルを作成中であるが、それを彼らが遵守し応用してくれるという確信はない。
これからの残り4ヵ月間、2年間の活動の着陸地点を探し、見極める日々が続くのであろう。