赴任前・首都テュニスでの研修生活  「りる」第16号より

     テュニジア          J.T.

                     平成9年1次隊

                     システムエンジニア

 

 7月10日。出発の日の成田はあいにくの雨模様であった。同日出発のザンビア、マラウイ、ジンバブエの同期隊員達と再開を約束しつつ機上の人となった。パリで一泊し、翌朝早朝の便でいよいよ任国テュニジアヘ向かう。

 パリからわずか2時間半のフライトで首都テュニスに到着する。機内から任国テュニジアを見た第一印象。

「黄色だなあ。」

さすが砂漠の国。(実際は、北部は地中海性気候なのだが。)山に木々が殆(ほとん)ど見えない。岩山、もしくは砂の山である。ニュース映像で見たイスラエル・パレスチナあたりの風景が脳裏に浮かんだ。家並みも白を基調としており、それが砂挨で黄ばんでいる。
「アラブの国にきてしまったんだなあ。」
突如(とつじょ)、わずか数日前に出発した讃岐の山の濃い緑、田の明るい緑、海の青、島々の緑や土の茶色が思い出された。それまで期待十分だったのが、期待半分・不安半分になった。

 そして一週間のガイダンス・各省庁表敬訪問を経て、4週間のテュニジア人家庭でのホームスティ及び語学研修が始まった。ただし、「日常的にアラビア語でなくフランス語を話している家庭」ということで選ばれた家庭だったので、通常のテュニジア人家庭よりもある程度西欧化された、いわゆる上流の家庭だった。「アラブの人の生活様式を知る。」というのには不向きだったが、その分余計なストレスは少なかった様に思う。

チュニスの商店街

 語学研修中の生活は以下の通りであった。

 6時起床。フランスパン(バゲットと言う)にバターとジャム、コーヒーという簡単な朝食。7時に家を出て歩いて20分離れたバス停へ。よくて0分、悪くて30分以上来ないという、いつ来るかわからないバスに乗ること10分でフランス大使館が主宰するフランス文化センターに着く。8時から授業開始。毎日3つのクラスを受ける。

1.一般クラス・・・一般の人達と15人くらいの大人数で授業を行うクラス。(私のクラスにはテュニジア、シリア、ニジェール、アルゼンチン、韓国の人達がいた。)

2.特別クラス1・・・協力隊員のための先生1人対隊員1人の特別クラス。

3.特別クラス2・・・協力隊員のための先生1人対隊員2人の特別クラス。

 授業は一般クラスが休憩を挟んで2時間。特別クラスは共に1時間ずつであり、終わるのが午後1時前。一日の授業はそれで終了。ただし、テュニジアではこの時期夏時間なので、役所や銀行も午前中しか働かない。大方の店は昼に一回閉めた後、夕方から夜にかけてもう一度開くが、開かない店も多い。

 授業の後はもう自由なので、近所の食堂で、またはテイクアウトのサンドイッチやピザで昼食をとり、そのままホームスティ先に帰って昼寝するか、徒歩15分位のところにある隊員連絡所へ行って休憩する。

 夏のこの時期、テュニジア人は午後には働かない、というよりも働けない。働けないくらい暑い。私が見たところの街頭の気温表示板の最高気温は45℃。最近になってやっと冷房付きの建物も増えてきたらしいが、冷房のない時代のことを考えるとそれも仕方のないことだろう。

 私もそんなテュニジア人の慣習に習って大いに昼寝させてもらった。毎日のように遅くまで残業していたサラリーマン時代の同僚に言えば殴られそうな話ではあるが。しかし、あの炎天下で動き回れば日射病、あるいは熱射病になって当然という暑さであったので、私も動けなかった、ということで勘弁してもらおう。

首都チュニスの風景

 話が暑さの方に外れてしまったが、夕方から夜にかけて涼しくなった頃に起き出して宿題及び予習をやる。学生の頃は多少宿題を忘れても周りから助けてもらってなんとかなった時が多かった。しかし、今回は先生と1対1の授業もあるので誰も助け船は出してはくれない。それに当然のことながら、授業は「フランス語でフランス語を教える。」という形式である。宿題や予習を怠(おこた)ると、授業の内容がわからなくなるということは勿論だが、先生とコミュニケーションすら取れないという事態も起こる。文字どおり「話にならない。」ということである。だから毎晩、とりあえずのことはやるように努めた。

 午後9時頃、遅い夕食。私が滞在した家族は食事の時間が各自ばらばらだったので、私自身は毎晩この家のご主人と(時には奥さんも交えて)食事するのが習慣となった。

 説明が遅れたが、この家族は病院で病理学研究をしているご主人と、専業主婦の奥さん、奥さんのお姉さん、フランスに留学していてバカンスで帰ってきている長女とテュニスのフランス学校に通う次女の5人家族であった。

 夕食は私自身にとって、「60分1本勝負」の時間であった。ひたすら1対1でしゃべった。このご主人はインテリだけあり、話題が宗教とか日常生活の方にあまり向かなかった。日本とテュニジアの貿易品目、今のテュニジアが何故先進国に追いつけないのか、ご主人がフランスにいた頃に観た日本映画の話(黒沢明監督作品)、また私の仕事柄もありコンピュータ業界の話題が特に多かった。

 毎晩こんな会話ばかりしていたのでは難しい話題だからなかなか話しづらいだろう、と思われるかもしれないが、逆に難しい言葉ほど英語と同じつづりなので、英単語をフランス語読みにすると結構通じたので、なんとか悪戦苦闘しつつも会話になっていた。そのためむしろ、奥さんと「今日どうだった?」とかいう普通の会話のほうが会話にならなくて、辞書を片手になんとか話をするという情けない状態だった。

 そういった状況での語学研修を終え、9月1日に首都テュニスからバスで3時間のル・ケフという山の斜面にある町の、その山を下って荒野を走ること数キロの所にポツンと孤立して建つ、ル・ケフ農業大学に赴任した。赴任して早1ヶ月が経ったがまだまだフランス語で言いたいことが言えない。「語学研修の成果、未だ現われず。」であるが、焦らず現地の人達とコミュニケーションを取る努力を続けていきたいと思う。