帰国隊員報告 「りる」第16号より
トンガ K.S.
平成3年1次隊
日本語教師
トンガでは、最初平成3年度1次隊として平成3年7月から平成5年12月までの2年5ヶ月間、日本語教師として活動しました。その時はアテニシ学院の大学部で日本語を教えていました。大学といっても学生が全部で百人くらいしかおらず、日本語は一般教養の範囲で教えられていました。日本語を取る学生は一、二、三年目を合わせて25名程度でした。
日本語はアテニシの他にトンガハイスクールとババウハイスクールという2つの学校で教えられていました。先生はいずれも協力隊の隊員でした。その当時ハイスクールの日本語シラバス(教授・細目)や統一試験はニュージーランドの物をそのまま使っていたのですが、トンガ教育省からトンガの日本語シラバスを作成してほしいという依頼があり、私も含めて4人の日本語教師が力を合わせて作ることになりました。普段はそれぞれの学校で授業をし、月に一回程度土日に集まって話し合うという形で作業を進め、着手して一年二ヶ月くらいかけて完成しました。私はこのシラバスが教育省に受理されるのを見届けて帰国しました。
アテニシ大学で日本語学生の卒業式
シラバス提出後も残った隊員と私の後任とで、このシラバスに基づいた教科書および統一試験の作成という作業が続けられました。
帰国して一年余りたった頃、JOCVニュースでトンガ日本語シニア隊員の募集を目にしました。シニア隊員というのは二年間の隊員経験があり、英語などの語学がある程度以上できるという条件で資格が認められます。その仕事は一般隊員より専門性が必要とされたり、グループの中心となって業務を進めていくような形になります。
このトンガシニアの要請は、教科書や統一試験作成の業務が一般隊員が授業をするのと同時に進めていくのには無理があることや最初に中心になっていた隊員たちが帰国したことから、思うように進まなくなったために、出されたものでした。帰国後もトンガの日本語教育のことが気がかりだった私は、これに応募し再赴任となった訳です。二度目のトンガ行きは平成7年6月で、2年2ヶ月の在任でした。
二度目はトンガ教育省の教育過程開発部という部門へ配属になりました。ここは英語やトンガ語、数学、理科などの教材のシラバス作成、改訂や教科書の編集などを行なっている所です。ここで日本語担当者としてまずは途中になっていた一冊目の教科書を仕上げることから始めました。ハイスクールはForm1から6まであり、日本語はForm3-5の3学年で選択教科として教えられています。そしてそれぞれの学年に一冊ずつの教科書を作る計画でした。一冊目は途中までできていたので比較的早く仕上げることができました。
私たちが目指した教科書は何より生徒が喜んで使ってくれる物、先生が楽しい授業を創造できる物です。一番苦労したのは会話文作りでした。シラバスで決めた文型や単語を用いて、生き生きとした自然な会話文を作るために何回も話しあい推敲(すいこう)しという地道な作業を続けました。また、日本語を学ぶことで日本の文化に触れてほしいという思いから、日本の年間行事や結婚事情、宗教、教育制度などを紹介するページを多く作り、できるだけ写真(白黒)も添えるようにしました。
日本語の教科書を手にした子供達
代々の日本語教師隊員の協力を得て、帰国までにForm3、4用の二冊の教科書を作ることができました。三冊目は途中で私の後任の方に引き継いできました。統一試験は95年、96年、97年分を作成し、無事に終了しました。教科書を作りながらシラバスの第一回改訂も実施しました。
トンガには日本企業もなく、日本人の観光客も少ないので、生徒が日本語を勉強しても具体的に役に立つことはありません。逆にトンガの中でも僻地(へきち)と言われるような島の学校で日本語が教えられている事の方が不思議な程(ほど)です。それでもトンガにとって日本は大事な貿易相手国であり、援助国でもあります。日本語を学ぶ生徒は少ないし、そのレベルも低いのですが、日本語に興味を持ってくれる生徒が増えていき、それらの生徒の中からやがて日本語を教えることのできるトンガ人があらわれてくれるのを願っています。