トンガ王国での暮らし 「りる」第5号より
トンガ K.S.
平成3年1次隊
日本語教師
トンガと聞いて、それがどこにある国かいえる人は少ないと思う。よく「それアフリカやろ?」といわれるが、残念ながらそうではない。かくいう私も南太平洋にある小さな国という程度の知識しかなかった。地図を広げると、日付変更線のすぐ西、南緯20度あたりに見つけることができる。大小150くらいの島から成り、面積は全部の島を合わせても日本の淡路島くらいで、人口は約10万人。母語はトンガ語だが、英語が通じる。かつてイギリスの保護領だった影響であろう。今でも英語教育に熱心で小学校から英語を教えている。また、国民のほとんどがキリスト教徒で、教会は人々の生活と密接なつながりを持っている。日曜日には大人も子供も晴れ着を着て、教会へ行く。日曜日は安息日なので仕事はご法度。店も全部閉まる。週休2日なので、土曜日に買い物をしたり、用事をすませるわけである。
またトンガ王国というように王様がいる。南の島の王様はカメハメハ大王と決まっているが、それはハワイの王様で、こちらはトゥポウ4世である。現在75歳だが、たいそう元気でトンガ人らしい立派な体格をしている。王様は親日家といわれ、日本語やソロバンがトンガに導入されたのは、王様の意向によるところが大きいと思われる。
日本との貿易上のつながりはやはり自動車である。トンガで走っている自動車のほどんどが日本製で、その多くが中古車である。ドアがとれたままの車でも平気で走っている。車体に日本の会社の名前や広告がそのまま残っているものも少なくない。マイクロバスには○○自動車学校とか○○旅館、○○幼稚園というのもあって、なんとなく楽しい気分にさせてくれた。
そして、トンガは日本に大量のカボチャを輸出している。これはここ数年のことだが、このカボチャで対日貿易黒字というからたいしたものである。10月はカボチャの収穫期で、あちこちの庭先にカボチャが山積みされる。日本から貿易船が来て、どんどん積み込んで帰る。売りものにならないのをよく近所のひとがくれたが、これがホクホクしておいしい。 「おいしい。」というと、また巨大なのをドーンとくれるので、ひとり暮らしの身では食べ切れず困ったこともある。
トンガ人はカボチャも食べるが、主食はタロイモ、ヤムイモ、サツマイモなどのイモ類である。ココナツミルクを使ってゆでて食べるのが一般的だが、地面に穴を掘ってそこで火をたき、蒸し焼きにすることもある。この料理法をウムという。肉や魚はルーとよばれる葉っぱに包み、さらにバナナの葉に包んでウムにする。こうすると鍋も皿もいらない。味付けはココナツミルクと塩である。御馳走に欠かせないのはブタの丸焼きである。海の幸も豊富で、魚、カニ、ロブスター、タコや貝類もよく採れる。温暖な気候と豊かな自然に恵まれて、自給自足に近い食生活が見られる。その反面、スーパーマーケットにはニュージーランドやオーストラリアからの輸入品が所狭しとならんでいる。パン、バター、コンビーフ、シピ(羊の骨付き肋肉)などはもはやトンガ人の生活に欠かせない食品になっている。トンガの伝統的な食文化が西洋化の波に洗われていると言えよう。
ごちそうを食べる人々−この家の娘さんの誕生日でした。
さて、私は青年海外協力隊の隊員として、一九九一年七月から一九九三年十二月までの二年五ヶ月をトンガで暮らした。トンガの隊員は約20人。学校をはじめ、漁業、農業関係や病院などの職場で、トンガ人とともに活動している。日本語教師は私をいれて4人で、ほかの3人はハイスクールに配属されている。
私の配属先はアテニシ大学という私立の大学で、私は3代目の日本語教師隊員だった。トンガには国立の大学が無く、優秀な生徒は奨学金をもらって、外国の大学に行く。しかし、それができるのはごく一部の者に限られる。アテニシは、外国に留学できないけれど勉強を続けたいと考える人の受け皿になっている。また、学長のフタ氏が有名な哲学者で、彼にひかれてアテニシに来たという者もいた。
大学といっても学生数百名程の小さな学校である。赴任当時まだ門が無く、どこからが学校なのかわからなかった。校舎もあちこちにポツポツ建っているくらいで、校庭にはブタが放し飼いにされているため、気をつけないとブタのウンコを踏んでしまう。中庭のヤシの木にはウシがつながれて草をはんでいた。
トンガの学校は2月に始まり、12月に終る。私は7月に赴任したので、3学期から日本語のコースを始めることになった。年度の途中だから学生が集まるか心配だったが、20名ほどが日本語の初心者クラスに集まった。以前に私の前任者から日本語を習った学生が何人か続けたいというので、2年目と3年目のクラスも作った。こうして3つのコースの授業が始まった。
大学生だから年齢は20歳前後である。体は大きいし、色は黒くて目がぎょろり。初めはとても緊張した。しかし、すぐに彼らが恥ずかしがりやだということに気がついた。それから人懐っこいことも。授業は英語を使っていたのだが、学生に質問されても何を聞かれているのかわからなかったり、質問がわかっても答えがわからなかったりして冷や汗をかいたこともしばしばあった。それでもだんだん慣れて冗談を言う余裕も生まれてきた。学生の勉強ぶりもおおむね良かった。
授業風景−学生はシオネ(22才)とネシアン(24才)
私は日本からのボランティアとして派遣されたわけである。しかし、学生にすればそんなことは関係なく、私はひとりの日本人教師である。そこにあるのは援助する側とされる側の関係でなく、先生と生徒の関係に過ぎない。私は日本でも教師をしていたが、国がかわり、人がかわり、言葉がかわっても、教えるという事はお互いの人間関係の上に成り立つという点は変わらないなあと感じた。そして教えながら教わることも多いという点でも同じであった。
2年目と3年目も基本的には最初の5ヶ月と同じ仕事だった。大学の制度や先生や学生は目まぐるしく変わったが、私はマイペースで仕事をさせてもらった。日本の学校ではありえないようなこともよくあったし、次々と勝手な要求を出してくる学生に腹を立ててけんかをしたこともあったが、最後には、「まっ、いいか」で終らせたトンガ語で「サイ、ぺ」(いいよ。大丈夫。問題ない。のような意味)といえばすべてがおさまるように。
学生が日本語を勉強して就職に役立つことはあるのか。残念ながら答えはノーである。日本人観光客は年間百人にも満たないだろうし、日本の商社が自動車やカボチャの輸出 入に関わっているとは言え、商談は英語でするだろう。そもそもこの大学での日本語は、一般教養の選択科目として位置づけられているので、観光客相手の日本語や商取引のための日本語を教えているのではない。1年や2年日本語を習っても教室以外で使わなければ身に付くものではないし、忘れていくほうが早いかもしれない。こう考えると何の協力にもなっていないのではないかという疑問がわいてくる。
アテニシ大学の卒業式の日−トンガダンスを踊る学生とその家族
しかしながら、彼らが日本語を習うことを通して、日本を知り、興味を持ち、知識を増やしていったことは後に残るのではないか。もちろん言葉はコミュニケーションのためにあるのだが、言葉そのものだけでなく、言葉を習うことで言葉の背景にあるもの、文化、習慣などを学ぶことも大切なことである。そういう意味において私の活動は技術協力とか援助というよりも、文化紹介、交流という意味合いが強かったと思っている。これは日本語教師のみならず、ほかの隊員についてもいえるのではないか。何年も前に帰国した理科教師隊員に教えてもらったという「みかんの花咲く丘」を歌ってくれた女子学生がいた。私が調理実習と称して一緒に作った「お好み焼き」や「牛どん」のことを覚えていてくれる学生もいるかもしれない。