帰国隊員報告                 「りる」第21号より

                                                    タイ      N.H.
                                                             平成7年度3次隊
                                    
日本語教師

                                                                

 私は、平成8年4月から平成10年9月まで、日本語教師隊員として、タイで活動していました。

任国概要・任地概要
 タイは、日本人観光客も多く、テレビなどで紹介される機会も多いので、よくご存じの方も多いと思います。そこで、ここではまず私の任地である、カンチャナブリという県について、ご説明したいと思います。カンチャナブリの県庁は、首都のバンコクから北西に車で3時間の距離しか離れていませんが、県の面積はタイで3本指に入るくらい広いので、県境は隣国のミャンマーと接しています。

 皆さん、「戦場に架ける橋」という映画をご存じでしょうか。ウィリアム・ホールデンが出ている1950年代のアメリカ映画です。カンチャナブリは、その映画の舞台になったクワイ川鉄橋があることで、知られています。

 第ニ次世界大戦中、日本軍はビルマ・インド侵攻作戦の物資輸送のために、タイとビルマを結ぶ全長415キロの鉄道を建設しました。これが世に言う泰緬鉄道です。「泰緬」の「泰」はタイ、「緬」はミャンマーの意味です。この鉄道建設のために、日本軍は、連合軍捕虜約3万人、アジア人強制労働者約10万人を酷使し、当初完成まで5年はかかるといわれた工事を、わずか1年2か月で終わらせます。

その結果、栄養失調や熱帯伝染病、日本軍の拷問によって、多くの犠牲者を出すことになり、この鉄道は「死の鉄道」といわれるようになりました。そのなかでも、カンチャナブリにあるクワイ川鉄橋は、日本軍の輸送手段をたつために、連合軍からの攻撃の対象にされることが多く、また地理的にも建設の困難をきわめたところとして、知られています。

タイ人の衣食住
 次に、私がタイの衣食住に関して、特に日本との違いを強く感じたことについて、お話ししたいと思います。

 まず食文化についてです。タイ料理のメニューは、トムヤムクンなど、日本でもよく知られるようになりましたが、現代の一般家庭の食事の仕方については、まだあまり知られていないのではないでしょうか。タイでは、仕事をもっている女性も多いからか、日本の家庭ほど、毎食すべてのおかずを自分の家で作るという家庭は少なくなっています。

そのかわり、通りには、お惣菜を売る店や持ち帰りのできる食堂があるので、買って来て食べるという人も増えています。料理によっては、手で食べたり箸を使ったりすることもありますが、ほとんどはフォークとスプーンで食べます。日本とは違って、お茶碗を持ち上げて食べるのは下品なこととされています。

 私は、日本の料理をタイ人に食べてもらう機会もありましたが、たいてい、味がうすくておいしくないといわれていました。タイ人にうけがよかったのは、お好み焼き、焼きそば、豚カツなどです。タイスキも日本でよくしられていますが、タイスキと日本のすき焼きの違いを説明すると、味付けや調理法の違いにみんな驚きます。さらに日本のすきやきは生卵につけて食べるというと、みんなとても気持ち悪いと言って、いやな顔をします。

 衣服に関する考え方もなかなかおもしろいです。タイでは、曜日ごとに色が決まっています。月曜日は黄色、火曜日はピンク、という感じです。必ずしも、その曜日の色を着なければならないというわけでもないのですが、気をつけて見ていると、本当にその色の入った服を着ている人が多いことに気が付きます。これは、子供から大人まで知っているタイの常識なのですが、その由来については、不明で知識人も首をかしげています。

そのくらいですから、日本人よりもずっと、色彩感覚が派手です。日本は四季があるので、着る物に変化がありますが、1年を通して暑いタイでは、曜日ごとにでも変化をつけて、派手な色で区別をはっきりさせなければ、着る物に飽きてしまうのだろうと思います。タイの住環境は、その人の経済状況や都心部に住むか地方に住むかによって、かなり違いますが、私が住んでいたのは、高床式の家でした。エアコンはありませんが、それでも高床式だと、あまり暑さを感じません。窓もガラスはなく、1年中、網戸です。

 トイレは手動式水洗でしたが、紙を流すと、すぐ詰まるので、流せません。タイの人は、もともとトイレの後も、紙を使わずに、水で洗うのですが、最近のタイ女性は、水で洗った後、紙で水気をふき取る人も増えてきているようです。

活動現場
 次に、私の職場について、お話ししたいと思います。ラチャパット大学カンチャナブリ校という学校で、学生の年齢は、日本の大学生と同じですが、仕事で使える知識や技術を身につけることに重きをおいている学校という感じで、日本の大学とは、少し雰囲気が違います、

 私が日本語を教えた学生のタイプは専攻別に、大きく3つのグループに分けられます。一つ目は、将来中学や高校の英語か日本語の教師になる学生、二つ目は、将来、ガイドやホテル従業員などの観光業につこうと思っている学生、三つ目は、選択科目として半年または、1年日本語を勉強する学生です。

タイ人教師との関わり
 まず、同僚であるタイ人教師との仕事の中で、苦労したことについてお話ししたいと思います。特に苦労した仕事は、カリキュラム整備です。この学校の日本語コースの整備に関しては、赴任後しばらくして課題は見えてきたものの、私とタイ人教師とで自分の学校の中で改良していける課題と、日本でいう文部省のような省庁に掛け合わなければ、改良できない課題があることがわかりました。

よって、省庁で定めているルールを改訂するために、同じ系列の他校のタイ人教師、日本人教師に声をかけ、省庁の人にも入ってもらいながら、約1年の間に、大小あわせて6、7回のカリキュラム改訂会議をしました。会議を開くためにも、他の隊員や省庁の方など、多くの人の力を借りなければなりませんでしたが、会議が始まってからも、作業は難航しました。

 まず気がついたのは、日本人教師とタイ人教師で、会議の進め方が違うということでした。日本人教師は、まず、理念や方針のような、幹の部分をさきに決めてから、具体的な枝葉の部分を考えようとしますが、タイ人教師はというと、その枝葉の部分から決めていこうとするのです。会議の時間がかかるわりには、内容は一向に煮詰まらないということが何度もありました。頭では、赴任する前から、考え方の違いがあって当然と思っていましたが、いざ直面してみると、まさに異文化の中で、仕事をすることの難しさを感じました。

当初は、とてもいらいらしたものでしたが、そのうち、自分が、相手のことを知っているようで実は全然知らなかったということに気がつくと、少しは心に余裕をもって、臨むことができるようになりました。

学生との関わり
 学生との接触の中では、逆にこちらが教えられたことも多く、次にそれについてお話ししたいと思います。私の学生達は、勤勉とは言えない学生が多く、友達の宿題をうつしたり、試験でカンニングしたりする学生もたくさんいます。また、暑い時期は気温が40度を超えるようなところですから、身が入らないのも仕方ないともいえます。私も、暑くて頭がくらくらするなあと思いながら、授業をしているような時、学生の机の間を回ると、さらに空気がもわっと暑くて、これでは学生に集中力がなくなるのも、しかたがないと思ったものです。

 そんな学生たちに少しでもやる気を出してもらおうと、将来観光業につく学生をガイド役にして、タイ在住の日本人を招き、模擬観光ツアーを企画したことがあります。日本人のお客さんに日本語を使って、カンチャナブリを案内するという初めての経験に、いつもはあまりまじめに勉強しない学生たちも、このときばかりはタイ人特有のサービス精神を発揮して頑張っていました。サービス精神が高じると、学生は、自分の日本語力でお客さんが知りたがっていることに答えられないのを、ものすごく悔しがります。私は、そんな彼らを見ていると、日本語のうまさよりも、お客さんを喜ばせることができるのは、彼らのお客さんへの誠意だと思いました。

 みなさんも、海外旅行に行かれたとき、難しい観光案内を上手な日本語でこなす人よりも、たとえ、「おはようございます」しかいえなくても、笑顔の美しい、心のこもった応対をする人に会って、いい気持ちになることがおありだと思います。日本語を教えるという点で、学生に接していると、ついつい正しい発音で話しているか、動詞の活用に間違いがないかなどに気をとられます。

しかし、そもそも日本語を勉強しているのは、何のためなのかを考えれば、日本語と共に学生に伝えていかなければならないことが分かりましたし、逆に日本語の使用を強いることで、彼らがもっている天真爛漫さや優しさをそこなうことのないよう、気を付けなければならないということもわかりました。日本語教師として、個人で海外へ行く人もたくさんいますが、私は、協力隊の日本語教師として海外へ行ったお陰で、日本語を教えることを、もっと広い意味でとらえる機会を得たような気がします。

タイヘの援助について
 また、途上国支援ということでも、自分なりに考える機会になりました。派遣される前は、「タイに協力隊員として、しかも大学に日本語を教えに行く」というと、「世界には、もっと困っている国や人がいるのに」とよく言われたものです。しかし今では、それに対して、自分なりの意見が言えるような気がします。最後にそれについてお話ししたいと思います。

 タイは、1980年代から1990年代の急激な経済成長の陰で、貧富の差が広がっており、私も活動中は、いろいろな経済状況の人と接することになりました。例えば、同じ中学生でも、ずいぶん状況が違うことがあります。私のいた学校の先生方のお子さんで中学生も何人かいましたが、先生の子供は経済的にも恵まれており、日本の子供とかわらないぐらい、塾にも行きますし、パソコンでゲームもしますし、日本のアイドルについても、私以上によく知っています。

大学進学は当たり前で、日本に留学する可能性もあるといった恵まれた子供達です。私がその子たちに対してするように頼まれたことは、塾のように週2回夕方、日本語を教えることでした。一方、中学に行くことが経済的に困難な子供もたくさんいます。タイの隊員の有志でそのような子供に奨学金を支援しているのですが、私が支援している子どもの家にいくと、食事も、持ち物も、将来の夢も、先ほどの先生の子供とは雲泥の差です。

私がその子にしてやれるのは、奨学金を払い、ちょっとした文房具を送ったりすることです。私にとっては、豊かな子供も貧しい子供も、私のタイでの生活を振り返る上で、大切な存在です。ですから、相手の生活上の困窮度によって、手助けする相手に優先順位をつけるのではなく、貧しい人もそうではない人にでも、相手が必要としていることを見極めて、手助けすることが大切だと思いました。

 それぞれの相手にあった手助けをするということは、タイ国内での貧富の差についてだけではなく、途上国間の格差についてもいえると思います。確かに、タイはもはや発展途上国を卒業し、近隣諸国へ逆に援助する側になりつつあります。途上国の発達段階を、人の成長にたとえれば、ミルクを飲ませることが必要な赤ちゃんもいるでしょう。また、食事や身の回りのことは問題なく自分でできるけれども、高校生のように、その年代に特有の課題を抱える年代もあるでしょう。

タイにはもう援助は必要ないという声もありますが、赤ちゃんにも高校生にも、発達段階にあった協力の仕方があると思います。タイの協力隊員は、他の国の隊員に較べ、生活上の苦労は少ないけれども、それぞれの持ち場で、こんなちょっと複雑なお年頃の国タイヘの接し方に悩んでいたように思います。

 タイは90%が仏教徒といわれており、前世で徳を積んだかどうかで現世のありかたが決まっていると考えられています。ですから、現世で恵まれない人は、前世での行いが悪かったからだと思われてしまいます。そのせいか、日本よりも社会的階層意識がはっきりしているように感じました。一方で、タイでは、現世で恵まれない人のために施しをするのは、自分の徳を積むことになり、自分の来世での幸せが約束されることになると考えられています。

このようなタイ人の思想が、タイ国内での貧富の差をなくしていくことにどう影響していくのか、またタイが近隣諸国へ援助していくことが、政策上だけではなく、一般の人の中で、どう受け止められていくのか、私はとても興味があります。

活動を振り返って
 活動を終えて、何が一番つらかったか、何が一番嬉しかったかと、よく人に聞かれます。帰国2週間前には、自分が赴任したばかりのころに目についた課題と、同じようなことがまた目につき、結局自分がここに来た成果はあったのだろうか、いろいろなことをして、業務量は多かったけれども、結局、それは自己満足だったのではないかと思いました。その時が一番つらかったような気がします。

 しかし、帰国前の1週間は逆に嬉しかった1週間で、連日、同僚や学生や近所の人が、お別れの食事会やパーティーをしてくれ、プレゼントもたくさんもらいました。特に学生からのプレゼントは、みんなで少しずつお金を出し合って買ってくれたものや、自分でかいた絵、紙で星をたくさんおって瓶につめたものなど、とても心のこもったものが多く、彼らが日本の大学生に較べてずっと素朴で純真なのには、心が洗われるようでした。何年かたって、彼らが日本語を忘れてしまっても、日本語を勉強したときの楽しさ・大変さや私のことを、少しでも思い出してくれたら、それだけでも、行った甲斐があったことになるのだろうと、今は思っています。

 タイ語に「ナムジャイ」ということばがあります。直訳すると、「心の水」という意味で、思いやりの心がある人や情け深い人のことをタイ語で、「心の水がある」といいます。今後、国が発展して行っても、タイ人の「心の水」だけは、かれないでほしいと思いますし、私もタイの思い出とともに、折りにふれ、自分の心の水はかれていないか振り返りながら、過ごしていきたいと思います。