ソロモン諸島での活動を振り返って   「りる」第26号より

                                                    ソロモン諸島  H.O.
                                                             平成9年度1次隊
                                     家政

                                                                

ただいま紹介に預かりました、Oです。平成9年7月から平成12年1月まで、ソロモン諸島で家政隊員として活動していました。

 まず、ソロモン諸島について少しお話したいと思います。ガダルカナル島といえば、おわかりになる方もいらっしゃるかと存じますが、ソロモン諸島の首都のある島、ガダルカナル島は、第二次世界大戦当時2万数千人の日本兵が亡くなった激戦地として、その名が知られています。

オーストラリアの近くにある国で、6つの主な島と1000近くの小さな島々で構成されています。面積は29000ku(四国の約1.5倍)で、南太平洋ではパプア・ニューギニアに次ぐ大きさです、、環太平洋火山帯に属するため、主な島は火山島であり、濃密な熱帯雨林に覆われています。

 人口は約44万人の小さな国で、そんな中に100以上もの部族があり、それぞれの部族語が話されています。公用語は英語ですが、部族間の共通語としてピジン・イングリッシュが広く話されています。ピジンとは英語を基本に現地語、オランダ語、ドイツ語などが混じった合成語です。私もこのピジン語を日常的に使って生活していました。

 宗教はキリスト教が広く普及していて、人口の95%がクリスチャンです。しかし同時に地方では伝統的慣習が根強く祖先崇拝、精霊信仰などの土着宗教が残っています。南の島特有の一面に広がるヤシの木、甘い香りを放つパパイヤやマンゴーといった様々な果物、いわゆる太平洋の楽園といっても過言ではないと思いますが、同じ楽園でもフィジーやニューカレドニアといったいわゆるリゾート地ではなく、まだまだ昔ながらの暮らしが根強く残ったのんびりとした国です。


 ソロモン諸島を理解しようとする時のキーワードは「ワントーク」という言葉です。これは簡単に言うと「同一言語を母語にする人たち」ということですが、彼らは自分と同じ言葉を話す人たちは家族と同じに考え、非常に強い仲間意識で結ばれています。近年、その部族意識が強いことが災いして、部族間の対立が激化しています。

昨年の6月5日に発生したクーデター後の治安悪化により、ソロモンの隊員とJICA関係者は国外退避を実施し、その後しばらくは事態を見守っておりましたが、現在は完全に引き上げという状態です。私が帰国する前年は、いつ何が起こってもおかしくないという緊張した状態が続いていましたが、いざ、このような事態がおこって、実際に活動を中断しなければならなくなった隊員を見ますと、また、他国の治安の悪いところの隊員の話を聞きますと、任期を無事満了して帰国できたことは本当にラッキーだったと感謝しています。

 次に、私の活動についてお話ししていきたいと思います。
 私は、ソロモン諸島の中でも最もいなかな地域のうちのひとつといわれる州の、州立のセカンダリースクール、つまり日本の中、高等学校に家庭科の教師として、配属されました。

この学校は、首都のある島から国内線の飛行機で1時間、州政府があるメインの島からさらに船外機付きボートで2時間のところの、小さな島にあります。その島は一日あれば歩いて一周できるくらいのほんとにちいさな島で、人口も、学校関係者300人をいれても、500人を超える程度です。この学校は、全寮制の学校なので、生徒と共に生活し、先生達と共に生活し、村人と共に生活していました。

プライバシー保護を主張したらとてもやっていけませんが、大家族のなかで暮らしているという雰囲気でしょうか。主食はサツマイモ、タロイモ、ヤムイモといったイモ類です。米はオーストラリアの輸入米が手に入りますので、米を食べ、イモを食べ、ココナッツを飲み、種類はあまりありませんが学校の菜園でとれた野菜を食べ、たまにタンパク質をとる、自給自足の生活をしていました。

一見、不自由なようですが、結果として、日本ではお目にかかれないような種類の魚や、カニ、カメやサメ、こうもりなどを食べる機会に恵まれました。豚や牛はなにか大きなお祝い事の時に解体して食べます。これはかなりの贅沢ですが、解体したら保存が利かないので島中の人が分け合って食べます。日本の料理を紹介する機会もありましたが、日本料理がどうかは別として、カレーライスは大好評でした。ココナッツミルクとの相性は抜群でした。

 わたしの学校はソロモン人の他に、ボランティアとして来ている、アメリカ人、イギリス人、そして、日本人とインターナショナルな学校で、いろんな文化が交錯していました。ソロモン人はもちろんですが、同じボランティアという立場でここにいるアメリカ人やイギリス人達にも影響を受けました 。

いくら現地語が日常的に使われているといっても、公用語として英語の教育を受けることがある種のステイタス、エリートの象徴みたいな風潮のあるこの世界で、彼らは英語が話せるだけで私とは違います。言葉の壁がないぶんすぐ実行に移せる彼らと、まず言葉の壁にぶつかるわたしと。

生徒がおまえは話せないと馬鹿にしているのを目の当たりにして最初はずいぶんきついなあと思いました。そんなときに同じ世代の同じ立場の人間として、彼らは本当に支えてくれましたし、言葉の壁がある程度何とかなってからも、私たちはよき仲間として学校のこととか、将来のこととか相談しあいました。彼らと出会えたのもいい経験だったと思っています。


 私が協力隊を志望した一番の理由は好奇心でしょうか。国際協力をしたいとか、何かの役にたちたいというのではなく、ただただどこかへいってみたい、日本語ではない言葉を話したい、日本ではない国で日本人ではない人々に囲まれて生活したいという気持ちがありました。

それによって国際的な素養が身につき、語学力がつき、異文化理解を深められるなら一石二鳥だと思いました。実際に自分をそういう場所に追い込んでみたかったという気持ちがありました。

 その結果何が変化したかと、帰国してよく聞かれます。お決まりですが、日本語でない言葉が話せるようになった、日本でなくても異文化のなかでも、電気やガスや水が不自由な環境でもやっていくことができるという自信がついたと思います。

 ですが、今一番強く感じることは人と人とのつながりを大切にしたいということです。一つ一つの出会いを大切にしたいということです。協力隊に参加しなくても違う環境のなかでも同じことは感じたかもしれませんが、協力隊というキーワードを通してつながった関係、つまり協力隊に参加するきっかけになった出会い、任地での出会い、帰国してからの出会いは、今の私にとってかけがえのないものです。

今ここでこうして、話をさせていただいていることもこうした出会いがなければありえなかったことですし、出会いがあったとしてもチャンスとタイミングがあわなければ成立し得ないことです。そういうチャンスとタイミングを見逃さないで、これはと感じることには常に積極的でありたいと考えています。

 今の私はここ数年の濃い経験をどう消化していくか右往左往している状態ですが、今日ここにいらっしゃる方々、支部長をはじめ、カウンセラー、育てる会の皆様方、先輩方のご指導を賜りながら今後の道を切り開いていきたいと考えています。

 やはりいつかまたソロモンにかえりたいと思います。こう思えることは私にとってよい経験であったと認めているということです。こういう機会を与えられ、こう感じることができたことに感謝しています。

 以上をもちまして報告を終わらせていただきます。
 ありがとうございました。