『セネガル帰国報告』    「りる」第48号より

                                                    セネガル   K.Y.
                                                             平成18年度1次隊後期
                                    
青少年活動                                                                


 見渡す限り凹凸のない乾いた大地から一転、里山ののどかな風景が広がる香川に帰って早二ヶ月が経ちました。久しぶりに感じる寒さに首を引っ込めつつ、温かな人たちに囲まれて心はほこほこする日々を送っています。

 途上国でボランティア活動をすることは私の一つの目標でした。「夢」ではなく「目標」です。夢は叶えてしまえば終わりですが、目標は一つの通過点です。高校時代から「福祉の道に進もう」と心に決めた私は大学もその方面に進学し、卒業後は地元の社会福祉協議会に就職。仕事で、また休日のボランティア活動を通して地域福祉に関わってきました。

日々の生活に満足していた一方、それでも「何かが足りない」という想いが消えることはありませんでした。自分に足りないものは何か?それは、「本当に困窮している地域の福祉の現状を知ることと、そこで自分ができる支援をするという経験」が不足しているとある時に思いあたりました。その経験を補充するための手段として選んだのが「青年海外協力隊」です。

これを読んで、日本の地域福祉と海外でのボランティアがなぜ結びつくのか?と首をかしげる方もいるでしょう。でも、私にとって、”地域福祉”というものは国や人種が違っても、行うことは同じです。「その地域で生活する人たちが幸せに毎日を暮らすことができるようにお手伝いをすること」それだけです。

そうして参加した青年海外協力隊。活動先は地球の円周の1/4強も離れた西アフリカのセネガル共和国。そこでの活動の詳細については過去のバオバブ通信に記したために省略しますが、この帰国報告ではボランティア活動をする際に心がけていたことを記します。

 セネガルはイスラム教徒が約95%も占めるイスラム国家。このことは「富める者が貧しい者に金銭や食べ物を差し出し助け合うことが当たり前の国である」ということを意味しています。

また、「外国人(白人)=お金持ち」という認識が基本的にあるうえ、学校の授業(社会科)などで「日本はアメリカに次ぐ2番目の経済大国」と、日本の戦後の高度経済成長を取り上げていることから、彼らは私を見ると「金クレ!物クレ!」のクレクレ攻撃を容赦なく浴びせかけてきます。確かに、学期の途中で給食が停止してしまった時には、「私が身銭を切って援助をすれば、空腹のまま児童が授業を受けなくて済むし、炎天下のもと昼食を食べに遠くの家に帰らなくて済む。」と考えたこともあります。しかし、その一時的な援助は彼らにとって果たしていい結果をもたらすでしょうか?むしろ、その逆だと思います。

気休め的な援助は、彼らの「困ったら外国人が物・金をくれて助けてくれる」という考えを定着させるばかりでなく、彼ら自身の力で問題を解決する機会を奪うことになりかねません。そうならないためには一緒に問題の解決方法を探す、ヒントを提供するといった支援が必要だと思いました。それは根気のいる支援であり、セネガル人からすると理解しがたい、ともすると、”不親切”と捉えかねない行為です。しかし、青年海外協力隊員も、セネガル国外からの援助団体も結局は「外部」の人間です。

いつかはセネガルから離れていきます。セネガルという国が発展し、国民が安心して生活を送れるようになるためには、やはりそこで一生涯を送る人たちが本気になって取り組まなければ望めません。主役はセネガルの人たち。援助者は黒子。「飢えている人に魚を与えると一日生き延びられる。しかし、魚の取り方を教えてあげると一生飢えずに済む」という昔の格言があります。私が常に心がけていたことは、つまりはそういうことです。

そして、その方法というものは長く一緒に時間を過ごしたり、相手のことを理解しようと努めないと見えてこないものです。それは、途上国でのボランティアだからこそ求められる姿勢というものではなく、「ボランティア」と名のつくものには全て必要なことだと改めて感じました。

 振り返ってみればセネガルでの生活は、”できない”ことの方が多かった2年間でした。それまでは「日本」という環境にいたからできたんだという気づき、日本で居ると「当たり前」と思っていたことが当たり前ではない環境の中で、思うように物事が運ばない焦燥感、無力感、悔しさ・・・。「しんどいな。」と思っても「これが自分が経験したかったことなんだ!」と自分を勇気付け、少しでも前に進もう、周りの状況を良くしようと努めました。

また、セネガルはどこの家庭も大家族で、近所の子ども、親戚の子どもも「自分の子ども」として一緒に寝食を共にする場合が多々あります。家族というものの「垣根」が広く、それはセネガル人同士だけではなく、外国人である私に対しても同様に扱ってくれました。そういう支えがあったからこそ不慣れな環境の中でも自分が納得いくまでの活動ができたんだと心から感謝しています。

今、私には日本名とセネガル名、二つの名前があります。また、日本とセネガル、二つの故郷があります。この2年間で私とセネガルの距離が縮まっただけではなく、セネガルを入り口にして、その他の外国への精神的な距離感も縮まりました。こうして得てきたものを今度は日本に還元すること。それが私の今後の課題だと思っています。

「私」というフィルターを通して、皆さんとセネガル、皆さんと世界の距離を縮めることができれば、ボランティアというものをもっと身近に感じてもらえればと願っています。