協力隊生活を振り返って       「りる」第7号より

     ラオス         H.K.

                     平成4年2次隊

                     養殖

 

 朝夕は涼しく、日中は穏やかだ。最近はこんな天気が続いている。乾季に入り雨が降らなくなったので雨季の八月には、もう少しで溢れそうなくらい水位が上昇していたメコン河の水もみるみる減ってきて、今では中州がその姿を徐々に見せつつある。

 残す任期もあと僅か。ラオスという見知らぬ土地に来てもう二年が過ぎようとしている。

 生活面ではそれほど困ることもなかった。衣食住どれをとっても不自由だと思わなかった。これも同じアジアの国であるラオスという土地柄のせいだろうか。住居はホテルの三階に同じサワンナケート県に派遣された男子隊員六人で住んでいた。そこはまさに男子寮と呼ぶにふさわしい所だった。ほとんど毎日夕食時にはみんなで出かけて食事をした。たまにはカレーや日本食などを作って食べたりもした。

その中には獣医や臨床検査の隊員もいて病気になった時にはお世話になることもあった。このような生活をしていたので日本が恋しくなることも不安になることもあまりなかった。さらに、ここでの生活を通じて対等の立場というものを感じた。年齢差もあったにもかかわらず上下関係というものが存在しなかったのだ。それは同じ協力隊員としてそれぞれ違った職種の人が集まって生活していたからかもしれない。

 その反面、仕事面では生活面と違ってかなり苦労したこともあった。私の場合日本での養殖経験もほとんどなく大学を出てすぐに技術補完研修を受けて、こちらに赴任してきたのだから当然かもしれない。赴任当時まず感じたのは自分の知識のなさだった。次に感じたのは経験の少なさからくる自信のなさだった。

同じ配属先で働いているUNDPのMrカセム、AITのMrニック、また、常駐はしていないがIDRCのMrグレッグさらに、シルバーボランティア(縫製)として来ていた伴さんなどを見ていると特にそう思わされた。まあこう思ってしまうのも自分の性格が多分に影響していると思うが。とにかく手探りで仕事をしてきたような気がする。

 また、仕事を通じて現地の人々と接していくうちに引っかかるものもあった。それは文化や習慣の壁といわれるものだった。深くつき合っていくほどそこに突き当たった。派遣前訓練で異文化理解はできないという講演があったのを思い出した。その時はそうかなあぐらいに患っていたのだが、こうして自分が実際に経験するとやはり難しいと感じた。

  サワンナケートで乗馬を楽しむK隊員


それを妨げているのは日本の文化や習慣が長年にわたって浸み込んでいる私自身のせいなのかもしれない。去年の九月か十月のことだった。風を冷たく感じた。秋だ!と直感した。正確にいうならここはラオスなので秋ではないかもしれない。しかし、この時ほど自分はやっぱり日本人なんだと痛切に感じたことは後にも先にもなかった。

 これ以外にも実にさまざまな経験をしてきた。それも今までにないぐらい一遍に多くの事が広範囲にわたっていたような気がする。そのためかこの「期」(ご)に及んでもなんだか気持ちの整理ができずにいるというのが本当のところだ。

  現地スタッフの人達とともに


 このように振り返ってみるとこちらで生活し、出合ったもの、人、すべてが私自身の心を写し出す鏡のようなものだったかもしれない。

最後になりましたがこのような私が協力隊に参加する機会を与えて下さった皆様に感謝いたします。また、たびたび故郷の香りを届けて下さった香川県青年海外協力隊を育てる会、ならびに、香川県総務部国際交流課の皆様に対してお礼申し上げます。ありがとうございました。

 私は十二月七日には任期を終え帰国の途につきます。