若い力をラオスにぶっつけ  「りる」第8号より

     ラオス         S.A.

                     昭和41年1次隊

                     電話線路

 

 私は小学生のころ、ブラジル移民にあこがれていました。「一旗あげてやろう」といった単純な気持だったのですが、電電公社に入社して、日本青年海外協力隊に参加したことにより、貴重な海外生活を経験できたことは望外の喜びであり、いまこうして二十九年前を振り返る中で、いくらかでもお役に立てたことをうれしく思う昨今です。

 ラオスヘは電電公社から四名派遣されたのですが、公社としても初の試みだったために、ラオスの電話事情がほとんど分からず、現地を旅行された人たちに聞いたり、本社からラオス郵政電信電話省へ電報で照会するなどして、携行機材などを準備したような有様でした。なんだか雲をつかむような出発でしたが、しかし行くからには・・・と、ファイト満々、私たち四名は「二年間の滞在で何かを残したい。

 

新しい建設工事を施行して、いつまでも現地で役立つものを造ろう」と話しあっていました。結果は、いろいろな制約もあって、建設工事の面では成果をあげることは少なかったのですが、しかし、精神面では多くのことを学び、また残してきたと思っています。現地へ行ってみて最初に感じたことは、共同作業が全く見られないことでした。

 

彼らに、共同作業の有利なこと、必要なことを説いても、長い植民地としての歴史と、きびしい階級制度彼ら自身の意識の低さから、理解はしてくれてもなかなか実行困難なものでした。しかし最終的には共同作業も板につき、”今日の仕事を明日へ”というノンビリムードは、二年間で是正できたと思っています。

 

 


 昭和41年9月(電話線)地下ケーブル故障探索のため掘削作業に励むA隊員



 一方、技術的な援助のほかに、私自身の理想としてラオスの人たちと、共に語り、笑い、泣く、人間同志の裸のつき合いをしたいと願っていました。この点では、ラオスを去るにあたって、共に汗を流した友人たちが、なけなしの金をはたいて(ラオスでは貧富の差がひどく食うのがやっとの生活水準)盛大なサヨナラパーティー(ラオス語でバッシーという儀式)をやってくれたことで達成でき、彼らの友情にうたれるとともに、心からうれしく思うし、今となってはなつかしい思い出の一コマです。

 当時、ラオスの電信電話は、首都ヴィェンチャンに810加入、ほか六地方都市を合わせ、ラオス全土で1300加入しかありません。市外回路はヴィェンチャンとサバナケット、ルアンプラバンの二都市間に無線回線があるのみ、市外ケーブルなどというものはありません。

 電信は各都市間を無線で連絡しています。電話施設は老朽のため故障がちで、加入者障害の修理に数日、あるいは数週間もかかるといった状況で、サービスがよいとはとても言えません。目の前の修理に追われて、増設など余裕もないのが、当時の実情でした。

 対日感情は非常によくてコンニープン(日本人)という親しみある呼びかけをよく耳にしましたが、ラオス南部の商業都市パクセヘ出張した時など、「白地に赤く・・・」の”日の丸”の歌を日本語でうたって歓迎してくれたのには驚き、かつ感謝しました。

当時のラオスは、なんといっても、何十年と続いてきた内戦に苦慮しているようで、これを解決しない限り国家の独立も発展もないように思った次第です。その過程にあって、国際連合の援助のもとに、メコン開発委員会が活動しておりましたが、インドネシア半島を貫通するメコン大河の水資源を利活用して、農業用水、あるいは当時日本の技術で建設されつつあったナムグムダムの完成により、工業生産にも活路を見出してと願わずにはおれません。

 二年間という、長いようで短い期間でしたが、照りつける太陽の下で、手に血豆をつくりながら直埋ケーブル故障のための掘削作業に汗したこと、それも日本人としての根性をみてほしかったことと、その過程においてお互いの心情の通いあうことを願ったからですが−。また、一日の仕事を終えてラオカオ(地酒)で、心の底まで打ちとけ合って話したことなど、なつかしく思い出は尽きません。

 しかし、それにも増して私は、外国から見た日本の国の偉大さに、はじめて大きな感激を味わったことを今でも忘れることはなくもち続けております。

 いまこの原稿を書いているとき、ラオス滞在時の同期の隊員で、隣国のタイ国在住二十七年のH氏からの便りを受取りました。許されるなら、彼と共に再びラオスを訪れ、かってのカウンターパートの手を固く握りしめ、旧交を温め、満天の星のもとで未来を語りたいと願っております。