アメリカ ヴァージニアより 「りる」第12号より
フィリピン T.U.
平成2年2次隊
日本語教師
私が青年海外協力隊に参加したのは、もう6年も前のことになります。私の派遣先は、フィリピンのダバオ市にある南東フィリピン大学で、ダバオは戦前麻の栽培が盛んだったことから、日系人も多く、大学生の他に日系人の高校生や大人にも日本語を教えました。フィリピン人にとって、日本は憧れの国で、ほとんどの学生の動機は、日本語をマスターして出稼ぎに行き、お金を儲けることのようでした。でも、私には、貧しくても家族や親類の絆が強く、皆で助け合って生きているフィリピン人の方が、豊かな生活を送っているように思えました。授業で、日本の学校のいじめについて話した時に、生徒達が、しばらく考えた後、「フィリピンでは、いじめはありません。」と答えたことが忘れられません。
日常生活でも停電や断水はしょっちゅうで、私も、ロウソクや七輪を使っていました。停電になって、私がまたかと外へ出ると、彼らは夕涼みにでも出て来たように、文句も言わず、星を眺めながら、おしゃべりしていました。あの底抜けの明るさには、いじめとかストレスの入り込む余地がないのでしょう.経済がどん底になろうが、天災が続こうが、いつも楽天的で本当に頭が下がる思いがよくしました。
任期終了後、留学の為渡米し、現在に至っていますが、私がアメリカに来ることになったのは、派遣先の担当教授がヴァージニアテク大学に以前留学しており、ダバオでヴァージニアテクの先生にお会いしたことから始まります。アメリカでは平和部隊に対する評価が高いことから、先生も非常に好意的で、任期終了後の予定が特にないと言うと、「じゃ、うちの大学にしたらどうか。」と言われ、奨学金を貰えるならと、フィリピン人の同僚と応募することにしました。
(左)フィリピンの友人(中央)教授(右)Uさん
先ず、専攻(カウンセラー教育)を選び、願書に、推薦状2通、銀行残高証明書(生活費と授業料×年数が必要)、大学(大学なら高校)の成績証明書(英文版)、TOEFL(最低550点必要)、GRE(大学院のみに必要な試験)に手紙を添えて郵送しました。願書を出してから、入学許可の書類を受け取るまでには結構時間がかかるので、早めに出したほうが良いです。いずれにしろ、留学生のビザをもらうには、大学から郵送された入学許可の書類とパスポートを持参して、アメリカ領事館に行かなければいけません。
アメリカに来て最初の頃、フィリピンの洗濯機も電話も無い、移動はジープニー(アメリカ軍の払い下げのジープが庶民の交通手段)でといった生活に慣れた後だったので、車を乗り回しているアメリカ人が皆金持ちに見えたことを覚えています。私の場合は、フィリピンでお会いした先生が住居からアルバイトまで面倒をみて下さったので、生活面で苦労は無かったのですが、勉学面では苦労の連続でした。
先ず、教授は権威者で受け身の授業に慣れていた私は、アメリカの教授のフレンドリーなこと(学生を姓ではなく名前で呼び、知らないことや間違いを抵抗なく認める)とディスカッションの多いクラスに驚いてしまいました。アメリカでは、各学期の終わりに、学生が教授に対する評価を出すので、先生もあぐらをかいていられないのでしょう。
反面、私には、授業中の飲食など、学生の態度が失礼に見えることもありましたが、皆、よく勉強します。私も、2年の学生生活を振り返って、図書館で過ごした時間が一番多いし、とにかくよく勉強しました。苦労の甲斐あって、オールA(アメリカではA−E評価)で卒業できましたが、これも大学院だったからと思います。院では、専門が決まっているし、リサーチやレポート、論文が主ですが、大学になると一般教養からはじまって取るクラスも多いし、なかなか大変のようです。その憂さ晴らしか、彼らは週末になるとパーティをやっています。
学校長から卒業証書を授与されているところ
パーティといえば、学生に限らず、アメリカ人は、この季節になると、「クックアウト」といって、外でバーベキューをよくやります。殊に、独立記念日の7月4日は、日本のお盆のように、普段離れている家族が顔をそろえるのですが、親類一同が料理を持ち寄って公園でクックアウトしている風景もよく見かけます。以上、思いつくままに書き記しましたが、何かの参考にして頂ければ幸いです。