小さな島国パラオより   「りる」第30号より

                                                    パラオ    K.T.
                                                             平成12年度2次隊
                                    
水泳

                                                               

2002年12月5日パラオヘ発ち、私の協力隊生活が始まりました。飛行機の中で考えていた事は一つ、“どうして海の綺麗な国が水泳隊員を必要としているのだろう”ということでした。 

飛行場からJICAオフィスまでの道のりはクリスマスのデコレーションで飾られていました。そうです、キリスト教を信仰するパラオが1年で一番盛り上がる12月だったのです。なので、帰国するときも家から飛行場まであの輝かしいクリスマスの飾りが見られるかと思うと、きっと寂しさも半減し、いいかもしれません。

パラオは1万5千人の小さな島国です。パラオと言えばダイビングが有名ですが、それもそのはず、パラオのロックアイランドと呼ばれる島々は世界美海の七本の指にはいるそうです。写真で見た事がある風景が目の前に現れると、本当に言葉を失います。

 今年度、夏休み水泳教室終了式の様子。

パラオ人はパラオ語、英語を母国語としています。駒ヶ根訓練中は英語を勉強したので、パラオに来てすぐ“この2年でもっと英語が話せるように頑張るぞ”と思っていたのですが、3ヶ月でそれが不可能というのが分かりました。その原因になったのが“日本語”です。詳しく言うと、“日本パラオ語”です。

パラオ語の25%が第二次世界大戦中に残った“日本語”であり、その数はおそらくミクロネシアでダントツの1番だと思われます。日本語だけではなく日本食、日本作法も普段の生活で使われており、戦争中、パラオ人に対する日本語教育の厳しさとは半端ではなかったと実感します。

では、パラオに残る日本の文化を紹介します。

1、日本語

初めて聞いたパラオ日本語が、“イタイ”。近くにいた子供が転んで、そのお母さんが、“イタイ、イタイ?”と尋ね、それに対して子供が、“ダイジョーブ”と答える。本当に驚きました。その他に、ベンジョ、サビシイ、ゴメン、アワナイ、アブナイ、ゾウリ、トクベツ、テンキ、ヤキュウ、ショウガナイ、デンワ、ヒコウキ、イソガシイ、ゴミなど。書ききれません。

2、日本名

ミナトバシ、ニホンバシという橋があり、ヒコウジョウと呼ばれる“バショ”があります。シゲオ、クニオ、フミコ、ヒロミ、キタロウ、などが名字、名前、性別問わず付けられています。例えば、キョウタ シゲオさん、オカダ スズキさん。私達、日本人にとってかなり変わった日本語の名前が、シコサン、カトウサン、キンタロウザンと“さん”まで名前に付いている方もおられました。

3、日本食

ベントウと呼ばれる弁当があり、良いものになると、ヤサイも入っていて、お肉も入って、本当に日本の幕の内弁当みたいなのが行事等で配られたり、お店で売られたりしています。

シュウカンと呼ばれるお葬式や、家族の行事日には、オシルコ、ニツケが出されます。名前どころか作り方も同じで、オシルコはお正月に“オメデトウ”と言いながら、皆で食べます。

“タマ”と呼ばれる、丸いドーナツの由来は大砲の“玉”からきているそうです。

4.歌

ポ、ポ、ポ、はとポッポ・・とパラオ人の約100%が“はとのうた”を歌え、“ももたろうさん”を歌える子も中にはいます。パラオ語の歌の中には、“アナタシカイナイー”とこぶし入りで歌われているラブソングもあります。
※カタカナで書いてあるのは全て、日本パラオ語です。

このような日本パラオ語が私の身の回りにある為、現段階(1年半経過した今)、英語は中途半端、パラオ語は特訓中、パラオ日本語ばかりしか頭に残らない状況です。

次に私の活動状況について書きたいと思います。私の配属先は、パラオ水泳協会で、勤務先は首都コロールから少し離れたミューンズという地区の国営プールです。このあたり一帯は戦時中に飛行場があった場所の為、“オールド スコウジョウ”と呼ばれています。25Mプールで、6コースあり、ビート板、足ひれ、浮き、コースロープはこのプールが1998年に作られた時に購入したそうです。

私の日々の活動は、水泳教室を持ち、その傍らでナショナルチームを見ています。教室は、子供クラスで初心者、初級、中級があり、大人で初心者クラスがあります。子供クラスでは5歳から14歳ぐらいまでの子供が週2回づつ来ており、参加者合計数は一年半で200名程になりました。パラオ人を初め、日本人、韓国人、アメリカ人、フィリピン人と参加者は多岐に渡っています。

パラオ人に水泳を教えると言う事は私にとってとても簡単でした。もともと運動能力が高く、小さい頃から海が近くにあった為、しらずしらずに体が“浮き方”を覚えたのだと思います。日本で子供に水泳を教えていた時は、上手になる過程で“水慣れ”というのは、 一番最初に習い、そして一番重要な事でしたが、パラオ人にとって“水慣れ”とは教えられるものではなく、もともと備わってる“才能”の様です。

泳法を教えても、説明よりも見るだけで習得出来、この早さは、日本の子供が泳法を完璧に習う時間の約4分の1の早さだと考えられます。
飛び込み、ターンなどは私が教える出番は残念ながらありませんでした。椰子の木を登り、そこから海ヘジャンプ!こっちが教えて欲しいという感じでした。

しかし、こんないい素材を持った子供がたくさんいる中、私以外に泳法を教えられる人がおらず、カウンターパートが子供を教える事を嫌う為、体調を崩すと教室が停止してしまう可能性があり、体力的に厳しい時が多々ありました。それでも、水泳教室を続けるというのには2つの大きな理由があったので、1年半続けられる事ができたのではないかと思います。

1つ目の理由として、今後ナショナルチームが国際大会に行く時の資金に当てたいため。2つ目の理由として、競泳人口を増やすためです。国際大会に行く選手のほとんどは年齢から見ても高く、そして競泳専門ではなく、バスケット、バレーボールを専門とする選手のため、持続性がなく、常に選手が入れ代わり、立ち代りしている状態です。一人の選手が向上することが見られないことが長年の課題であったといえます。それに加え、15歳以上ともなれば、ある程度自分の好んだスポーツ種目も限定されているため、高校に進学後、競泳に長期間の依存は難しいといえます。

そして、競泳人口がかなり少ないパラオの原因として”海”があげられます。パラオ人にとって、幼い頃からずっと”泳ぐ事”とは競泳といわれるものではなく、深く潜って魚を捕る事だったり、友だちと一緒に遊ぶ事を意味します。彼らにとって、今更水の中で水着を着て、真剣に同じ所を行ったり来たりするという事は、苦痛である様です。

そこで、カウンターパートと話合い、5歳ぐらいから14歳までの年齢の子供を教えることによって、競泳というものを体と頭で記憶し、長期でしかも確実に水泳を残す手段になるのではないかと結果をだしました。

私とカウンタパートは、今教えている子供達がいずれ、選手になり、パラオ水泳チームを支え、いずれ友達、兄弟、家族、そしてパラオ水泳チームのコーチとして成長して行って欲しいと長い目で考えています。

 多国籍、水泳教室

あと半年間、今度はプールがある首都まで上がって来られない離島の人達の所へ行き、出前授業をやろうと計画中です。プールがないのでもちろん海で授業をします。が、私はとても海が苦手で、”海は広いな、大きいな”といいますが、だから苦手なのです。こんなきれいな海で授業が出来るのはとてもありがたいのですが・・・頑張ります。

すごい事をやろうとは思っていません。当たり前の事が大切だと思っています。水泳を教える中で、パラオの子がプールで少しでも笑ってくれればそれでいいと思っています。彼らと同じ様に笑ってあと半年楽しんで行こうと思います。