現地隊員レポート 「りる」第59号より
パラグアイ N.M.
平成21年度3次隊
保健師
『香川県の皆様へ』
どうも、香川県の皆様、「りる」の読者の皆様、お元気ですか?日本に今年1月帰国しました。パラグアイでの2年間は「あーっ!」という間でした。でも、中身はぎゅうぎゅうに詰まりすぎて、皆さんにこの気持ちをうまく言葉で表現できないことがもどかしいです。さて、パラグアイは2011年に創立200周年を迎えるというまだまだ新しい国です。スペインから独立し大きな戦争を経て、今のパラグアイ共和国があります。200周年は盛大に祝われ、国民がパラグアイを愛していることが伝わってくる一年でした。2010年には世界ワールドカップをパラグアイで感じ、日本VSパラグアイ戦では相手国で日本を応援するという面白い体験をしました。
普段はのんびりとした雰囲気の任地も、さすがのサッカー大国。日本に勝利した後のパレードやお祭り、どや騒ぎには圧倒されるものがあり、日本が勝利した時を想像すると、一瞬鳥肌が立つような思いがしました。配属先の病院もさすがに救急外来は診療していましたが、テレビを外来待合室に設置し、職員、患者みんなで太鼓をたたきながら応援しました。そんな任地は首都から250q、バスで5時間、パラグアイでは中核市の中心地にあります。アスファルト舗装で物流、交通量が増し、免許不携帯の若者がヘルメットなしでバイク運転、3人乗りなんて当たり前、交通規則はあってないようなものでした。
病院の救急外来には、飲酒運転の若者が交通事故を起こして血を流して運ばれて来ては、検査や治療のできる主要病院へ搬送せざるを得ない状況だったことを思い出します。この2年間でも店やホテル、薬局が増え、店舗もガラス張りに改装する所も多くあり、町が動いているなあと毎日感じていました。
しかし、お金がなければ生活できない町になってきているのが実際のようで、物や食品が豊富にそろうようになってきたけれども、貧富の差が拡大していることを色々な所で感じ、社会の矛盾みたいなものに触れました。働きに出なくても生活できていた人達が雇用を探さなければならず、パラグアイで生計が立てられない家庭はアルゼンチンやブラジル、スペインにまで出稼ぎに出る人も多くいました。
そんな、変わってきている中心街とは一変、5分もバイクを走らせると、赤土の赤茶、草原の緑、空の青が広がるの〜〜〜んびりとした田舎風景が広がります。牛、豚、鶏が放し飼いされ、濁った井戸の水を使い、トイレは掘って天井と壁をとりつけただけの簡素な建物も多くありました。
買い物や病院に行くまで遠く、衛生環境が保ちにくい中で不便のようにも感じましたが、それが、その地域の方々の生活で、住民たちはそんな生活が当たり前になっていました。アクセスの整備など他分野の発展も保健医療において重要な問題で、雨が降ると道がドロドロになって急変しても病院まで来ることができない住民も多くいました。
このように、一歩、病院の外に出ると、ただ疾患対策といっても、そこにはたくさんの問題や背景、生活習慣が相互し合っていることに気づくことができます。また、少し生活を変えるだけで防ぐことのできる病気も多いように感じました。生活を変えること、意識を変えることが病気を予防する第一歩だと思いましたが、今までの習慣や環境を変えることがどれほど難しいことかは皆さんもご存じだと思います。
ダイエットしてリバウンド、禁煙したいけどできない、高脂血症と言われたけど運動する時間がない等など、こんな自分から変わりたいと思っても簡単なことではなく、時に苦しい道のりだったり周りにも影響することだったりします。それに、安易に生活を否定することは住民達を否定することになり、これまで積み重ねてきた文化や習慣までも否定しかねません。私が壁にぶち当たったのは、問題抽出後、生活の中で少しずつ変化させるような支援はとても難しく、いろんな葛藤が生まれてきました。
それから私は自分で資料を作ることを極力やめ、厚生省管轄の病院であったことからも、すでにパラグアイで作られている教材やマニュアルを集めることを始めました。教育担当の保健師も教材を集めるようになり、もともと能力のある方で、今では自分でインターネットから情報をとってきて講習会を開くこともあります。活動において、いろんな分野に手を出しましたが、特に思い入れが強くなったのが、任地の死亡率一位であった脳卒中を予防するための生活習慣病対策と、地域での救急法の普及活動です。
活動6か月目に「糖尿病・高血圧プログラム」が病院にでき、担当者と共に何もないところから物品、マニュアル、薬、教材を確保するために厚生省担当者に申請書を提出したり、担当保健師と本の読み合わせをしたり、整埋整頓したり、教材を作成したり、患者訪問したり、お互いにモチベーションが落ちているときも励まし合ってプログラム導入が安定するまでの半年間、一緒に一喜一憂しました。それから、病院の体制や自己の体調不良から担当者と一緒に活動できないことも多々ありましたが、この方との関係は最後まで深く、活動延長の希望をもらった時には、何も残せていないと悩んでいましたが、この人のために何かはできたのかな、と気持ちが救われた思いでした。
地域での救急法普及活動は、当初、病院の救急車が壊れており患者搬送もできない状態であったこと、救急を要する患者が増えていたことからも、地域の消防ボランティア団や警察官と救急法訓練をして町の機能を活かすことと、配属先の地域救急病院としての意識づけも含め蘇生法講習会を同県の看護師隊員と開催しました。 パラグアイでの救急医療や救急システムの整備はまだまだこれからの段階です。
搬送できる体制を整えることは私にとって容易ではないけれど、そのような意識や能力の人材を育て、支援することはできると感じました。もちろん、スペイン語も現地語もカタコトの私でしたが、それでも理解しようと訓練に協力してくださる方々がおり、地域の高校生へ救急法・交通安全講習会を協力し合って開催できたことは、とても充実感がありました。
帰国して振り返ると、パラグアイは貧しい地域や田舎地域が多く、教育や物資不足等の様々な問題があると感じましたが、これからどんどん発展していく可能性を秘めた国だと感じています。文化や生活の違いがあり、最初戸惑うことも多くありましたが、とても優しく温かい人が多く、助けられてばかりでした。だらだらと色々書きましたが、まだまだ言い足りない経験や思いがあり、本当に貴重な二年間に感謝しております。
もし皆さんの中に、今一つJICAボランティアに参加したいけどできないでいる方がおりましたら、まず、JICAの募集説明会に参加し、元脇力隊員の生の声を聞いてみてはいかがでしょうか。