協力隊での活動を終えて       「りる」第5号より

     パプアニューギニア       K.N.

                     平成3年2次隊

                     野菜

 

 P.N.G.のサリリ村から日本へ帰ってきて、はや三ヶ月が過ぎた。僕の任地であったその村では、電気、水道、ガス等がない非常にシンプルな生活をしていたので、日本での便利な生活に逆カルチャーショックを受けるのかと自分なりに心配もしていたのだが、そこには、呆れるほど抵抗なくスムーズに順応している自分の姿があった。

 人間とは、不便な生活に慣れるのには、時間がかかるが、便利な生活にはすぐになじんでしまう生き物であるようだ。確かに、指一本でスイッチを押せば灯りがつくし、蛇口からは、きれいな水がいくらでもでるし、ガスコンロはいつでも簡単に、料理のための火力を提供してくれる。

そんな便利な暮らしの頂点で生活している僕達日本人は、ついついそれを”善いこと”と考えてしまう。そしてそんな生活をしていない人々を”不幸”であり”貧しい”と思ってしまいがちなのではないだろうか。 僕もサリリ村へ赴任した当初は、そんな”不幸”で”貧しい”生活を少しでも改善することができれば−と「力」んでいたことを思いだす。 と同時に自分自身がそんな所で生活していけるのかという不安もあった。

 ところがである。実際に村で村人とともに暮らしてみると、自分で川から水を運び、森から薪を運んでくることがいかに強烈に「己れが”生きている”という実感」を得ることができるか、ということがわかってきた。もちろん最初は、それらの作業に慣れるのに苦労したが、その実感は、さらに生きがいにも通じるものであった。

しかしそれは、都会人がアウトドアライフにおいて感じるレジャー的悦び以上の何ものでもなかったのかもしれない。だが村人の生活において、家族の一人一人がそれぞれの役割を持って、しかもいきいきと生活している姿には、僕達の考える”不幸”な”貧しい”生活を思いおこさせるものはなかった。食べ物も彼らの畑以外の森のいたる所で、ココナッツや果物、鳥、豚等々、それこそ食べきれないほど得ることができる。

 このようなまさしく楽園といえるような所で何が僕にできるのか悩んだこともあった。しかし、しばらくサリリ村で暮らしていると、お金がないために小学校へいけない子供達、お金がないために薬も買えず、病院にもいけない病人達が少なからずいることがわかってきたのである。

村の暮らしはほとんど完全な自給自足であるが、世界が貨幣経済の中で動いている以上、いくらパプアの山奥深い村であろうともお金の問題は避けられない。そのような問題を村人と話しあっていくうちに、彼らが今、必要としているものは、必要最小限のお金(前記した学校、病院のための)であることがわかってきたのだ。

 そのために僕が村人と共にやろうとしたことは、以前にこの誌で紹介させていただいたのでここでは省略するが、今回一番感じさせられたことは、援助、協力することの難しさである。援助する側は、自分の日常生活の基準をもとにではなく、援助される側の基準で考えていかなければ、有益な活動はできない。

僕も今回サリリ村の状況から色々なことを学ぶことができたが、それとて、サリリ村から50Km離れた村では状況は全く異なってくるはずである。援助とは、その人、その村、その町、その国によってそれぞれ大きく異なってくるものだと思う。

 それゆえ、本当の援助、協力は、そこに住む人々をおもいやり、その土地のおかれた状況を理解し、その異文化を認めあう”心”から始まるのではないかと考える。これを書いている自分自身、このようなことを完全に遂行できたとは思っていないが、これからの他国に対する協力体制には、より一層”心”の部分が必要とされるのではないだろうか。

 祭りの衣装

 そもそも援助するという発想は、困っている人、病気で苦しんでいる人をみて、何かできることはないのか、何かいい方法はないのか、という自然な人間の感情だ。その根元的な感情を、より効果的な援助にいかすためにも、 ”心”の大切さを忘れてはならない。これが協力活動を終えた僕の思いであり反省である。これから協力隊に参加する人も自分なりの問題提起をもって、有益な活動ができるように望んでいます。