2年間の協力隊活動を振り返って 「りる」第30号より
パナマ N.O.
平成12年度1次隊
野菜
私が帰国したのは今から3ヶ月前の、平成14年8月下旬である。まだほんの3ヶ月前のことなのに、すでにパナマにいた時の事が夢のようである。しかし、いつまでも夢の中でいる訳にもいかないので、この機会に2年間の協力隊体験を振り返り、一つの区切りにしたいと思う。
そんなわけで、私のパナマでの協力隊活動やそこで感じたことを述べてみたい。
1.主な活動について
(1)配属先職業訓練センターにおいて
私に対する配属先の要請内容は、訓練校での持続的農法を用いた農場の開設、有機農法による菜園の設計および農場管理指導であった。具体的には、
(1)訓練校内の農場の管理、
(2)訓練校の農業講座における講師および実技指導、
(3)近郊の小学校や零細農民に対する巡回指導などである。
今となっては印象深い思い出の一つとなったが、実は私は着任から1年ほどの期間、カウンターパートによる事情により、活動があまりうまくいかなかった。要するに職場で私が一緒に仕事をしなければいけない人間の責任者が、協力隊というシステムをよく理解しておらず、ボランティアの活動に全く理解が無かったのである。
これには私も相当参った。ただでさえ異国の地に来て、言葉にしても、仕事にしても分からないことだらけなのに、自分はわざわざパナマなんて国にまで来ていったい何をしてるんだろう、と暗い気持になることもしばしばであった。
とはいえ、このようなことは協力隊では別に珍しいことではないのである。途上国で働く以上、多かれ少なかれほとんどの協力隊員はこのような問題を抱えていて、それを克服しながら活動を進めていくものなのである。私も思いつく限りのことをしてみたが、結局情況が好転したのはカウンターパートの退職によってであった。
彼は突然、何の前触れも無く、 一方的に職場を去っていった。驚いたのは、職場の誰にも話すことなく、当日の始業時間を1時間ほど過ぎた頃に電話で連絡してきたことである。まさに青天の霹靂であった。しかし、もともと職場のパナマ人とも折り合いの悪かった彼がいなくなったことは、全ての人にとってプラスにはたらいた。
すぐに後任となる私のカウンターパートも決まり、その後の活動は、”今までの1年間はなんだったんだ”と思うくらい順調に進んだ。その後の新しいカウンターパートとの活動は、有機農法を用いた展示圃場の運営を始めたことである。
それは、農場内で排出される有機性廃棄物を再利用して堆肥を作るための堆肥舎作りや、健全な苗を作るための育苗ハウスの整備、綿密な作付け計画の立案や栽培品目の選定、また輪作・混植栽培の導入などであり、これまでのただ種を掻くだけ、という粗放的な野菜栽培からの転換である。
配属先での授業の様子私としては、新しいカウンターパートとの活動は、短い時間ではあったがかなり満足いく物になった。彼はインストラクターとして、今後も講義を受け持つと同時に、農場開発にも関わっていくため、伝達した技術や知識、考え方が講義や農場開発にも反映され、より広範囲で長期的な普及効果が期待できる。
ただ残念な点は、その訓練校では、年間3回の長期の農業講座があるのだが、私の任期終了に伴い、彼と共に最初から最後まで担当することができたのは1回だけだった点である。より多くの事を共に体験し考え、また1年を通じた講座の流れを確立するためにも、少なくとも1年を通して全ての講座を彼と担当したかった、というのが唯一の心残りである。
(2)近郊の小学校において
パナマの農村の小学校では学校の敷地内に圃場を持っていて、そこでニワトリを飼ったり、野菜を作ったりしている。日本の小学校と同様にパナマの小学校にも給食があり、農業を学ぶというよりはむしろ、給食の材料を確保する、給食費を減らす、といった目的の方が重要で、そのせいもあってか、先生も生徒も非常に熱心だった。
始めるきっかけはごく個人的なことで、たまたま私がヒッチハイクをした車の運転手がそこの小学校の先生で、私が近くの職業訓練センターで農業の指導をしていることを言うと、ぜひ今度うちの小学校にも来てくれということになり、それから週に一回定期的に訪れるようになったのである。活動はというと、生徒や先生、また父兄達に堆肥や野菜の作り方を教えたり、日本の話をしたり、私の職場の農場に招待したりと、私にとっても非常に楽しい活動だった。
そこで感じたことは、現地の人々と仕事をして行く上で最も大切なものは、お互いの信頼関係の構築と人間関係である、ということである。確かに知識や技術も重要であることには変わりは無いのだが、その前に現地の人々と働くには、まず自分の人間性を認めてもらえないことには、特に我々外国人は、いくら肩書きや学歴があったとしても、こちらの話に真剣に耳を傾けてはくれないし、信用してもらえない。 こいつの言うことだったら聞いてやろう、と思ってもらえなければいい活動は出来ないのである。
この小学校では、非常に良い形で活動できたと思う。私の思う良い形とは、相手方に本当に必要とされた上で、彼らがそれを実際にやることのできる状態、やる意志のある状態のことである。必要とはしているが、それは全て他人任せで、自分では指一本動かさない、といった援助慣れしてしまっている場
合も多いのである。
また、これらの活動を通じて、小学校の授業の中に農業実習を取り入れることは非常に良いことなのではないかと考えるようになった。実際に畑で種を掻いたり、収穫したり、雛の頃から学校で飼っていたニワトリを殺して食べたりすることにより、普段我々が食している物は全て、ある種の人間以外の犠牲で成り立っているということを、実感を伴って教えてくれるのである。幼いころにそういう体験をすれば、食べ物を無駄にしたり、粗末にするといったことは少なくなるのではないだろうか。特にこれからの日本においても重要なことだと思われてならなかった。
(3)農民グループに対する巡回指導において
私が巡回指導活動を行なっていた農民グループは、ノベ族と言って、パナマの西部に広く居住している先住民の人々である。数年前自治が認められたが、居住環境も山間地や交通アクセスが悪い所がほとんどで、近年盛んに様々な国の援助が入っているところでもある。私の職場の生徒もほとんどがノベ族の人であった。
巡回指導の様子まず簡単に彼らの生活環境を紹介しておきたい。先にも述べた通り、殆どの人々が山間地に住み、産業らしい産業も無く、自給的な零細農業を営んでおり、収入の殆どは出稼ぎに依存している。農業形態は、伝統的な農法である焼畑が行なわれており、そこでオカボやトウモロコシ、イモ類などが作られている。
そこで私が行なった活動とは、粗放的な焼畑移動耕作から定着式農業への普及活動である。つまり、水田の有効性を説明したり、定着式耕作農業を行なうために、土壌保全や、有機質肥料使用を促す活動などである。
〔有機質肥料使用の必要性〕
・養分供給効果:化学肥料に比べての有機質肥料の優位性。
・土壌改良効果:収量及び品質の向上、環境への配慮。
・安定した肥効
・材料の殆どがただで手に入る
そこで実際に作製し、その土地で排出される有機性廃棄物の再利用、有効利用をしつこく訴えた。
考察として彼等は、これまでも化学肥料を使ってきた習慣がなかったので、すんなりと有機質肥料の話に入れたと思う。先ず最初に彼らのやる気に少し驚かされた。
そのとき受けた印象では、彼ら自身も、焼畑式の農業から定着式、つまり耕作農業への転換の重要性に、移り変わる彼らの生活環境を通じて気付き始めているのではないかということである。しかし、いいボカシ肥や堆肥が作れたからといって、すぐに収入が増えたり、収量が爆発的に増加することはない。
ゆっくりと時間をかけて、少しずつ変わっていく物である。しかし彼らはそれに興味を持ってくれた、彼ら自身、日々の生活の中で、年々減少していく作物の収量、緑から赤色に変わっていく山、以前はあったところに無くなっていく水など、自然環境の変化を感じ取っているのだと思う。それは、休閑をしない作物栽培、傾斜地での土壌保全を考慮しない栽培による土壌の劣化、また、多くの森林伐採による水源の枯渇、などに起因する。
こうなってくると、私の配属先での活動と非常に密接に結びついてくるわけであるが、彼等の中には、真剣に技術的な指導を欲している人たちが、たくさんいる。彼等は私に、「我々に足りない物は、充実した指導だけだ。山には堆肥作りに必要な材料はあるし、何より我々にはそれをやる強い意志がある」と熱く語った。このような人々や、グルーブは他にいくらでもあると思う。
しかし、そのように最近パナマでも環境保全型農業の普及は非常に重要視されているのだが、それに必要な草の根的、実践的な農業技術を実際に指導できる人材が極端に不足しているのが一番の問題である。
ゆえに、これからの最も大きな課題は優秀な技術者(それは決して机上の理論に精通しているというのではなく、実際に畑に出て、その地域に最も適した持続的農法を用いて農業ができ、それを上手に農民達に教えることができるという意味)の育成であると思う。
私のような片言のスペイン語しか喋れない外国人ではなく、ネイティブの人間が流暢なスペイン語で、分かりやすく、ユーモラスに教えるのが最も効果的だと思うし、今は片言の外国人でも必要とされているが、そのうちもう必要ないよと言われるのが理想であると同時に、普段活動していない地域でのこのような活動は、私にとっても非常に良い勉強になった。
巡回のため馬での移動2.活動期間を終えて
2年1ヶ月にわたる活動を無事終えることができ、正直ほっとしている。今振り返ってみても、活動においても、生活においても、嫌な思いをすることも多かった。どちらかというと嫌なことの方が多かったような気がするくらいである。しかし、”嬉しいこと、感動すること”に救われ続けたと思う。
たまにしか無いし、諦めかけているところにちょっと心憎いことをされると、普段の何十倍も嬉しく感じるのである。それでまた気持ちを盛り上げ、また裏切られて失望する。これの繰り返しであった。パナマ人にはイライラさせられたし、腹も立ったが、結局それを許す気持ちにさせてくれるのもまた、パナマ人だけなのである。
派遣前の訓練時代に、異文化に対しては好きになる必要などなく、ただ嫌じゃなければいい、気にならなければそれは適応しているんだ、ということを聞いて、ずっとそれを意識してきたし、それによりずいぶんと楽な気持ちで生活することができたと思う。
この2年間、協力隊に参加することにより、ずいぶんゆっくりと色々な事を考えることができた。自分のこと、家族のこと、将来のこと、パナマのこと、日本のこと、世界のこと。そこで今はっきりと言えることは、協力隊に参加して良かったということ、もっと多くの人に協力隊に参加して欲しいということ、そして私の経験を何らかの形で社会に還元していきたい、ということである。
最後に、この2年間いろいろな形で私を支えてくださった全ての人に感謝したい。