帰国報告           「りる」第43号より

                                                         パナマ T.O.
                                                             平成15年度3次隊
                                    
看護師                                                               


 15年度3次隊パナマで看護師として活動していたOです。パナマにいる間はこちらに活動の様子をお知らせすることができず、大変申し訳なく思っています。帰国して一年近くなりますが、遅ればせながら今回、”帰国報告”をしたいと思います。

 私はパナマのヌトレ・オガールというNGOで活動していました。ヌトレ・オガールは1988年にパナマ・カトリック教会の司教が栄養失調児を救済する目的で創立した非営利団体です。国内に6ヶ所の栄養改善センターと10ヶ所の栄養コミュニティーセンターがあります。

 私はパナマ・シティーからバスで4時間ほどかかる、サンチアゴという小さな町の栄養改善センターに派遣されました。この栄養改善センターというのは、栄養失調の子どもを一時的に収容して、保護する施設です。サンチアゴの施設では40名ほどの子どもの収容が可能でした。スタッフは総勢16名、うち8〜10名のニニェーラと呼ばれるスタッフが3交替で24時間子どもの世話をしています。


 看護師としての主な仕事は、入所時の情報収集、医師の診察介助と指示受け、内服介助などです。施設では点滴や注射などの医療行為はできなかったので、私も子どもたちの世話(食事介助や沐浴、オムツの交換など)をしながら、子どもの全身状態を観察し、内服をしても症状に改善が見られない子どもは、県立病院に入院させました。入所して間もない子どもは栄養状態が悪いため、症状の悪化も非常に早かったのが印象に残っています。

 サンチアゴのセンターで活動を始めて半年ほどは、看護師というよりもニニェーラとして子どもたちの世話に明け暮れました。土日はスタッフが少ないこともあって、ほとんど休みなく出勤していました。体力的にはきつかったのですが、検査データや画像に頼らなくても、子どもの状態をある程度正しく把握できるようになりました。また子どもの病状を的確に判断できるようになったことで、少しずつスタッフからも認められるようになったと思います。

 サンチアゴでの生活に少し余裕が出てきた頃、栄養改善センターで働く以外にも活動を広げていきました。サンチアゴのセンターで子どもたちは通常3〜6ヶ月ほどケアを受け親元に帰ります。センターを退所し親元に帰っていく子どもたちを送り出すたび、子どもたちが暮らす村でも看護師として何か活動できないかと考えるようになりました。

サンチアゴの施設に入所して来る子どもたちの大半はインディヘナと呼ばれる原住民の子どもたちです。原住民の人たちは今も公共の交通手段もない山岳地帯で暮らしています。人びとは細々と畑を耕し、自給自足に近い生活をしています。

現金収入が少ないので、男たちはパナマ市などの都会に出稼ぎに行くことも多いようです。水道や電気は普及しておらず、衛生状態も良くありません。ヌトレ・オガールのパナマ本部にその旨を相談すると、「駆虫薬を配ってみれば?」というアドバイスをもらいました。衛生状態が悪いと、おなかの中に虫を”飼う”ことになります。せっかく摂った栄養を虫に食べられては、ますます栄養状態が悪くなり、貧血にもなります。サンチアゴの医師にも『駆虫薬は安全、安価しかも比較的効果がある。』と言われたので、早速私は駆虫薬の配布を計画しました。


 幸いヌトレ・オガールはパナマ国内全域に10ヶ所の栄養コミュニティーセンターを持っていました。そこでサンチアゴから最もアクセスが良く、多くのインディヘナの人びとが生活するブエノスアイレス(以下ブエノスとします)のセンターを拠点として、駆虫薬を配ることにしました。栄養コミュニティーセンターというのは、近隣に住む子どもたちに昼食や栄養クリームを提供し、ボランティアの”お母さん先生”が歌やお絵かきを教える保育所的役割を持ち、菜園や家畜飼育(豚、アヒル、鶏、イグアナなど)も行われています。簡易の宿泊設備があり、頑強な男性スタッフが常駐しています。

 さてブエノスには、まずインテルアメリカーナというパナマ唯一の国道をバスで2時間ほど北上します。そこでトラックを改造したチバという乗り物に乗り換えるのです。このチバ、出発時間は運転手の気分どお客さん次第(満席にならないと出発しません!)。その上、ブエノスまではアップダウンの激しい悪路が続き、乗り心地は最悪です。サンチアゴからブエノスまで運が良ければ5時間弱、移動だけで丸1日つぶれることもしばしばでした。しかし帰国前にはそんなチバに乗りながら悠々居眠りができるようになり、インディヘナの人たちに呆れられもしました。

 このようにブエノスの栄養コミュニティーセンターまでは車で行き、センターで寝泊りしながら、歩いて周辺の村を巡回しました。駆虫薬の配布だけでなく、同時に村の子どもたちの身長や体重を測定したり母子手帳で予防接種の確認をしたりもしました。またサンチアゴのセンターに入所していた子どもへは、巡回に合わせて各村の集会場に来るようラジオで巡回の日を放送してもらいました。駆虫薬購入には隊員支援経費を使わせて頂き、のべ397名の子どもたちに薬を飲ませることができました。


 こうしてあっという問に2年間が過ぎました。いつも行き当たりばったりで、隊員として有意義な活動ができたか?と問われれば、胸を張って『はい』と答える自信は今もありません。しかし自分がどんなに辛いときや悲しいときでも、常に子どもたちへは前向きな気持ちで接することができました。初心を忘れずに活動を続けられたことは、自分の中で大きな誇りと自信になりました。もちろんヌトレ・オガールのスタッフをはじめ、多くの人々の応援と励ましがあったおかげで、2年間無事に活動ができたことは言うまでもありません。

 今世界中で活動されている隊員のみなさん、どうぞ健康には十分留意されて、お元気で活躍されることを心からお祈りしています。また私の活動を香川から支えてくださったみなさんにこの場をお借りして、心からお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。