ケンペイタイとショウナン島  「りる」第9号より

     マレイシア       Y.K.

                     平成2年1次隊

                     日本語教師

 

「ジュプン、ジャバッ(日本は悪い)。」
日本語が好きで普段は朗らかないい子にそう言われた時は、一瞬ドキッとした。
歴史の授業後の教室移動中、廊下で会った時のことだ。他の生徒もいろいろ聞いてくる。「先生、ケンペイタイって何ですか。」
「アイコクコウシンキョクって何ですか。」
「先生、ショウナン、知ってますか。」
えっ湘南?いや違う、日本占領下のシンガポールの呼称「昭南」のことである。

 マレイシアの生徒は中学三年時に、日本がマレイシアを植民地にした歴史を、当時の経済、教育事情から日本軍の統治組織に至るまで、かなり詳しく勉強するようだ。当時は、日本語学習を強要された。日本語の奨励や日本文化紹介のため日本語週間を催した。日本語の能力が昇級につながり、優秀者は日本留学をした。このようなことが教科書に書かれているが、これを読むといったいいつの時代の話だろう、今と全く同じでないかと思ってしまった。

 マレイシアの中等学校で日本語教育が始まったのはマハティール首相のルック・イースト政策によるもので、私がマレイシアにいた当時(一九九〇年七月〜一九九二年七月)マレイシア全国のエリート校六校で日本語教育が行われていて(現在は二校増えて八校)、各校二名ずつ日本から青年海外協力隊の日本語教師が派遣されていた。一般社会でも、日本語ができると就職、昇給に有利なので日本語熱は相当なものだった。

 政府はルック・イースト政策のもとに、どんどん日本語を普及させようとしていて、、その一環として私たちは学校で「日本語の夕べ」なるものを行うよう、教育省から依頼されていた。教育省のお役人たちは今、昔日本がやっていたことをそのまま真似て、やっているのではないかと疑いたくなった。政策によって導入された日本語を、嫌々やらされている生徒(も、かなりいる)を見るにつけ、植民地時代を彷彿(ほうふつ)させる思いもした。

 

  マレイシア、学校の年度末パーティ(中央 K隊員)



 一九九一年は、太平洋戦争が始まってちょうど五〇年目で、マレイシアにとっては、東海岸のコタバルに日本軍が上陸して、五〇年目だった。五〇年前は武力で植民地化したが、今は経済力という武器で、日本経済は軍事力よりももっと深く、広く、浸透している。軍事力と経済力という手段の違いはあれ、五〇年前と、現在の状況の類似性、それに自分が加担しているのに気づいたとき、少々気味悪く思えた。

 日本軍が五〇年前に落とした爆弾が発見されたというニュースが、私がマレイシアにいる間に二回あった。
「おまえの爆弾だぞ!」とマレイシア人が言う。
「うん、そうだ。うちのじいちゃんが落としたやつだよ。私はそれを拾いに来たんだ。」と、私は冗談で答える。

 年輩の人からこういう話を聞いた。
「私の父は日本軍の拷問を受けた。私は日本を憎んでいたが今となっては昔のことだ。いつまでも昔の憎しみにとらわれてはいけない。今は、日本人も友人として受け入れるよ。」
「植民地時代、この辺にも日本軍がいて、夕方六時以降は外出を禁じられていたんだ。」
「私の父は日本軍警察の仕事をしていたよ。」

 生活が困窮した話や日本軍の残虐行為の話も聞いた。日本で教える戦争の歴史は、原爆による被害を始め、被害者としての日本が強調され、日本が東南アジアに与えた被害は教えられていない。相手国が当然のこととして知っていることを多くの日本人は知らないというのが事実である。

 国際化という言葉が流行語の様になっている今日だが、国際化の第一歩は自分を知ることだ。自分がどこから来て、何者であるかを知るために歴史を学ぶことはとても大切だと感じた。

 

  マレイシアの子供たち