現地隊員レポート             「りる」第52号より 

                                                    マレーシア  M.S.
                                                             平成20年度1次隊
                                         作業療法士
    

 

『マレーシア便りU』

 マレーシアで2回目の年越しをし、2年の任期も残すところ5か月となりました。こちらの年越しは、ただの年、年度が替わる区切りでしかなく、お正月のお祝いはありません。イスラム教徒であるマレー系にとってのお正月は、ハリラヤプアサ(断食明けの休み)、ハリラヤハジ(犠牲祭)の2回、中華系にとってのお正月は八リラヤチナ(日本で言う旧正月)、インド系はデパバリと、民族によって異なります。

 配属先でハリラヤのお祝い。隣はカウンターパート

 私の任地クランタン州は、マレー系、つまりイスラム教徒が大半ですので、今回は断食について書こうと思います。イスラム教徒は、年に1度、1ヶ月間の断食をします。断食とはいえ全く食べないのではなく、日の出(5時頃)から日の入り(19時頃)の時間帯は飲食をしない、というものです。私の配属先である福祉局では、昼食休憩がなくなるため、勤務時間が1時間短縮されます。

まちの様子も変わります。夕方まで飲食店の営業は禁止され、夕方になると、断食終了後の食事用に、おかずやおかしを売る屋台がたくさん出て、まるでお祭りのようです。そして日が沈み断食時間が終了すると、イスラム教徒は一斉に食事をするので、この時間帯、飲食店は大混雑、道を歩く人、車は無くなり、私の交通手段であるバスもなくなる、という現象が起こります。

 断食時期に出現する屋台

 イスラム教徒にとって断食は、貧しい人の気持ちになる等の意味があるそうですが、私が感じた断食のすごさは、断食時間終了の瞬間にあります。モスクから流れてくる合図でお祈りをし、一斉に食事を始めるイスラム教徒たち、今この瞬間に、この地域のイスラム教徒ほぼ全員が食事時間を共有している、ということが、ものすごい一体感を生み出しているように感じます。

そして、1か月の断食期間を終えたハリラヤ(断食の祝日)では、親戚や友人の家を何軒も回りながら、一日中、いろんな人とあって食事をします。1軒の家にたくさんの人が集まるので、もちろんその中には初対面の人もいるはずなのですが、誰とでも話が盛り上がります。この、食事しながらのコミュニケーションによって広がっていく人と人とのつながりが、マレーシアの豊かさだと思います。

 さて、ここからは、活動のことをメインに報告したいと思います。前回のレポート時から2か所増えて、31か所ある州内のCBRセンター(CBR:地域に根差したリハビリテーション。障害を持った子ども、大人が通ってくるセンター)の支援をすることが私の活動です。現在は、少し焦点を絞って活動したいと思い、主に6〜7か所のセンターを巡回しています。センターでは、CBRワーカーさんが働いていて、日々様々な活動をしています。CBRセンターは、あらゆる障害・年齢の方を受け入れることになっているので、小さい子どもから、青年、70歳のおばあちゃんが通ってきているところもあります。 マレーシアでは、障害が重いと学校に受け入れてもらえない場合がほとんどなので、CBRセンターはそういう子どもたちにとって学校の代わりになる役割も担います。また、障害者の就労はまだまだ壁が大きいため、成人も多く通ってきています。

 CBRセンターで簡単な仕事(畑や手工芸など)ができるようにしているところもあります。センターの運営は地域の人からなる運営委員会によって行われます。センターでの活動以外にも、地域に住む障害者の障害者登録を促したり、CBRセンターに来られない障害者の家を訪問したりと、CBRセンターはさまざまな役割を担っています。

 CBRセンターでの活動(ブレスレット作り)

日本で障害者の入所施設で働いていた私にとって、地域での生活を支援するCBRというプログラムは、とても魅力的に感じます。ワーカーさんは、地域の人、つまり、特に福祉の勉強をしてきた人ではありませんので、それゆえの難しさもあるのですが、地域とのつながりが強いおかげで、地域からの協力も得やすいなど、大きな武器です。もちろん、うまくいっていないことの方が多いのですが、それでも、日本とは違う、マレーシアらしい方法で、楽しそうに暮らしている人に出会うととてもうれしくなります。

 ここでの私の役割は、作業療法という専門を生かして、訓練や支援の方法についてアドバイスを行うこともありますが、それ以上に、今必要なこと、自分たちにできることを、ワーカーさんと一緒に考えていくことだと思っています。CBRセンターがあるおかげで、これまで家にいた障害をもった方々が通って来られる場所ができ、そこで何かしらの活動が行われている、というのが現段階です。

ここでの活動内容は必ずしも通ってきている人に合ったものではなく、本人・親にとっても、ワーカーにとっても、だたの時間つぶし、ここに通ってくることだけが目的になっているように思えることもあります。そこで、次のステップとしては、個々の将来を見据えた支援を行えるようになることだと考え、ワーカーさんと、一人一人の将来にとって、今何の支援が必要なのか、CBRワーカーとしてできることは何か、を考える作業を少しずつ行っています。「目指すものは障害者の社会参加」、という意識が少しずつ広がり、それに向けて何ができるのか、ということが大きなテーマです。

障害を持った当事者が訓練することだけでは社会参加にはつながりません。社会が受け入れて、ソフト面・ハード面ともに障害者が参加していきやすい社会に変わる必要があります。そのためには、障害者のこと、特に彼らの能力をもっと知ってもらう必要があるし、何よりお互いに慣れる必要があるのではないか、こういうことをワーカーさんと話し、もっと積極的に外に出ていく活動(散歩や買い物に行くなど)をしよう、というアイデアが生まれてきています。障害者の社会参加のためには、社会が変わることが何より必要で、地域の人に理解を求める活動ができるのも、「地域に根差した」CBRプログラムの強みだと思っています。

 しかし現実はなかなかうまくいきません。とても仕事をしたがっている20代後半の女性がいます。長距離の歩行は難しい程度の身体の障害、私でも聞き取れる適度の構音障害がありますが、仕事をできる能力は十分に有しています。さらに、母親は市場で野菜売りの仕事をしています。そこで、まずはその母親の仕事を手伝って一緒に仕事をするようにしてはどうか、という案がでます。しかし問題は、母親の賛同が得られないことです。母親の愛情がないわけでは決してありません。

しかし、障害者を隠しておきたいという意識があり、外で仕事をさせるには抵抗があるようです。障害者が店頭にいると、野菜が売れなくなるというふうにも考えているのかもしれません。実際に、「障害者が作った食べ物は買いたくない」と言う人はよくいます。このように、障害は、本人が持っているものだけではなく、社会にある、というケースは多々あります。

 このような問題は、質と量は違えど、日本も抱えている問題であると思います。2年の任期の後には日本でも取り組みたい課題です。残りの5ヶ月間、人と人とのつながりが豊かなマレーシアならではの支援を目指して、ここでできることを一生懸命やりたいと思います。