協力隊活動をはじめるにあたって  「りる」第16号より

     マラウイ            H.M.

                     平成9年1次隊

                     電話交換機

 

 「でっかいアフリカの地でなんか一丁やってみよう。」意気込んで乗り込んだ私を迎えてくれたのは、期待したとおりのでっかい太陽と人なつっこい人々、そして期待はずれのアフリカの実態であった。

 私の任地マラウイは東部アフリカに位置する内陸の国である。世界第2位の最貧と、世界第1位交通事故発生率、そしてなんといっても「世界中でもっともHIV感染が深刻な国」なのである。いきなりひどいこと書いてしまったが、15才以下の子どもたちがこの国の人口の2分の1を占め、未だにその平均寿命が45才であるという事実は、医療大国、長寿大国、日本で30年間たらずをすごした私の想像を絶するものであった。

 念のため言っておくが、私は医療関係者では無い。私の職種は、国際電話交換機の保守運用業務であり、その職種の性格柄、どちらかというと人の命とかその類の話には疎(うと)いほうなのである。

 それは、私が現地トレーニングメニューの一貫として、ブランタイヤ市近郊のビレッジにホームステイしたときのことであった。

 ホストファミリーはJICAが用意してくれた信用のおける家庭でバンボ(お父さん)とマイ(お母さん)と7人の子どもたちという、一般的なマラウイの家庭であり、そこでのステイも居心地(いごごち)のよいものであった。ステイ初日、といっても所詮(しょせん)、お客である私の最初の仕事は近所に住んでいる親戚への挨拶まわり(近所といっても一番遠い家までゆうに10kmある。)と、子どもたちの遊び相手であった。

 ビレッジにおいて、日本人の私は非常にめずらしいらしく、特に子どもたちはすぐに興味を行動に表わした。「アズング(外国人の意)、アズング!」と声をかけてきて、私が現地語で挨拶をするとうれしそうに恥ずかしそうに返事をしていた。ジョンもそんな子どもたちの中の一人であり、真っ白な歯と大きなクリクリとした瞳が印象的な4才の少年であった。黒人の子どもが発するその独特の高音で学校でならった現地語の歌を一生懸命歌ってくれた。

 



 次の日の夕刻のことである。その日、1つのファネラル(葬式)があった。その小さな棺は昨日まであんなに元気だったジョンのものであった。彼はマラリアにかかって、その短すぎる人生を終えた。とバンボはいっていた。

 葬式が始まっても不思議と涙はでてこなかった。その死はあまりにもあっけなく、そして淡々と式が進められているせいでもあった。その日、床についたあと、いろいろなことを考えた。それはカルチャーギャップという一言でかたづけてしまってよいのだろうか?「いきる」という日本では当然与えられるべき権利、自然の成りゆきさえ、この国では勝ち取るものであるらしい。こんなに生と死が接近した空間。「ここはアフリカなんだ。」改めて、認識させられた。

 考えてもみてほしい。自分を含めた日本人が「いきる」というテーマのもとで、どんな努力をしたことがあるのだろうか?戦後の平和な日本に生まれ、両親の愛に包まれ育った私たちにとってその答えは皆無である。同じ地球に生まれ落ちた2個の人生が、日本とアフリカとでこうまで違うこと。私は、たまたま日本という国に生まれ、ジョンはたまたまそれがマラウイであった。それだけのことである。

 日本に生まれ、中流家庭ながら、何不自由無く日本で育つことができた偶然。会社の先輩が何の気は無しに協力隊への参加を薦(すす)めてくれたこと。私の周(まわ)りのみんなが、それを応援してくれたこと。私の任地がアフリカのマラウイに決定し、また、新たな褐色(かっしょく)の友達ができたこと。思い返してみれば、私の周りには今の私に繋(つな)がるすばらしい偶然がたくさん転がっている。人はそれを運命と呼ぶのかもしれない。私は自分の運命に感謝し、いまこんなチャンスに恵まれていることに使命感さえ感じることができる。

 8月末の赴任から3ヵ月が経とうとしている。任地ブランタイヤは、マラウイ第一の産業都市であり、ときどきここがアフリカである、ということさえ忘れさせる街である。

 しかし、これから本格的に夏を迎えるマーケットの喧操(けんそう)の中に、アフリカ大陸独特の風のにおいと、ゆるりとした時間の流れを感じることができるとき、私はジョンの歌声を思い出すのである。

 2年間の任期は、長いようで短いものになるであろう。この国のために自分ができること、自分のためにこの国から吸収できること、取捨選択の毎日になりそうである。