帰国隊員報告 「りる」第15号より
ケニア M.Y.
平成6年3次隊
自動車整備
皆様がケニアから想像することは、広い草原を疾走する野性生物だと思います。私はケニア野性生物公社に配属されました。この公社はケニア全土にある国立公園を管理し、正式名はケニアワイルドライフサービスといいます。
私はここの西ツアボ国立公園の車輌部門で活動していました。この公園は隣の東ツアボ国立公園と合わせると、四国より広い面積です。野性動物の王国でも、この公園運営には自動車が不可欠です。この公園には、200人の職員がおり、その内20人が車輌部門スタッフでした。
西ツアボ国立公園は首都ナイロビ、とケニア第二の都市モンパサの中間に位置し、どちらの都市からも250Kmの距離にありました。また、このケニア野性生物公社には、現在5名の自動車整備隊員が派遣されており、それぞれの任地である国立公園で活動しております。その中には香川県出身の平成7年度3次隊I隊員もナックル国立公園で活動されています。
ケニアの印象は、派遣前に訓練所で習ったり、本で読んだりして行ったのですが、最初はやはり見るもの全てに驚かされました。日本から見たケニアは非常に遠い国ですが、ケニアから見た日本はものすごく近い国です。何故なら、ケニアでのテレビ・ビデオ等の家電製品、走っている車の80〜90%は日本製だからです。また、首都ナイロビでは、ほとんど全てのものが整っており、日本食の料理店も数多くあります。ケニアの人々は日本に対し興味を持っており、日本のことも我々がびっくりするくらいよく知っています。
私の活動の主な仕事は、公園内の密漁防止用パトロール車輌の整備、道路整備用車輌の整備、充電機・ポンプの整備、そのための技術指導、マネージメントの改革などでした。車は舗装されていない四国より広い公園を高速で走るため、車輌の損傷は桁違いに激しく、4WD車がそれなりに使われていますが、日本では壊れないようなところが壊れていきます。全ての部品は250Km離れたナイロビとモンパサの都市まで行かないと、手に入りませんでした。
私はこの任地で9代目の隊員でした。しかし前の隊員から私が着任するまで1年以上の空白があり、その間に日本からの日本車の援助があり、30数台入っていました。ケニアには1992年の無償資金協力6億円で車輌は100台入っており、その内3分の1が、私のいた西ツアボ国立公園にありました。ということで、ケニアの人々は、イギリス車には慣れていますが、日本車には慣れていないため、ケニアの人々にとり私の責任は待ちに待った後任ということでした。
メカニックの事情は、第一印象は経験と勘で直すということで、原因を根本から直すというものではなく、とりあえず動くようにという直し方です。10年以上経験のあるメカニックがドアロックのかかっている車が分からず、ドアノブを引きちぎってしまったり、洗車の際、車内までホースで水をかけ洗ったため、電装関係をショートさせてたりしたことがありました。古い車の場合は問題もありませんが、最近の車のように電子制御を使った車の場合は技術がついていかなくて、現地人のメカニックが取り残されているという現状です。
技術指導において、各隊員が一人一人任地で指導するのも大変ですが、隊員同士横のつながりを持って、もっと効率的な技術援助がないものか、話合いました。国立公園を管理しているケニアワイルドライフサービスの研修センターで本格的な研修施設、つまりメカニックの訓練施設を作る計画を立てました。その初めとして、全国のナショナルパークのメカニック及び他の省庁からもよりすぐりのメカニックを参加者として集め、集中研修会を私の任期中に1週間程度のものを3回行いました。この計画は現在も進行中で、今後も継続していくことになっています。
将来も、先程K隊員が言われたように、どんどんと隊員一人の任期は2年ですが、継続して隊員が入ることにより計画が継続していき、最後は現地の人だけで専門学校が運営出来るように進展すれば、と思っています。
私生活のことになりますが、この2年間の体験は私にとり一生忘れられない様々な思い出が残りました。現地の人達との交流は勿論のこと、ケニアの自然、大草原の中のキリマンジャロに沈む夕日、星のすごさ、また、ライオン・象が庭まで遊びに来るというエピソードなど、日本では経験出来ない思い出を胸にケニアを後にしました。
どうもありがとうございました。