JICA専門家報告 「りる」第15号より
ケニア K.K.
昭和44年2次隊
農産物加工
私は香川大学農学部を卒業し、1969年に青年海外協力隊に参加。当時、青年海外協力隊は発足間もなくで広報は余りされてなく、私は卒業と同時に東京築地の市場に就職した。その東京で初めて青年海外協力隊の存在を知りました。大学卒業当時、高松の林飛行場は、YS11しか降りられなく、ジェット機は絵本、グラビアで見るぐらいで、ジェット機を見たくて築地の市場に就職時、羽田空港へ連れていってもらったことがあります。
私は当時22歳だったが、自分と同じくらいの人が国際線に乗っているのを見、自分も国際線に乗りたい衝動にかられました。何とか海外へ行く方法はないものか探している時、青年海外協力隊があることを知り、(69年)9月に参加しました。今は、支援する団体や国際協力事業団の広報が行き渡っており、早い時期に情報をつかめることから若い人の協力隊参加へのチャンスは恵まれていると思います。
私は最初、1970年に協力隊員としてタンザニアの農業省研究局で、国連ユニセフの大豆プロジェクトを担当しておりました。今回JICA専門家で派遣されたのは、国際協力事業団の中で一番規模の大きいプロジェクト形式のジョモケニアッタ農工大学で、農場の専門家として9年間担当させてもらいました。トータルでアフリカには12年間いたことになります。
今から協力隊員として行かれる方々に申しあげたいことは、眞鍋副総裁もいわれたように、私達日本人は島国の人間で、国際語というものが難しい。協力隊として仕事に携わる時、きわめて頭のいたい問題です。
1970年、タンザニアに行きました時、農業省研究局には居残りの英国系白人の方がシニアスタッフとして7割くらいいました。私も派遣前に3ヶ月間語学の研修を受けて来ましたが、着任した時、私が喋(しゃべ)れた英語は「How do you do?」と「My name is Kita」で終わりでした。ですから、英国人が「Mr.Kita・・・」といわれてもわからないため、私が言えることは「I beg your pardon」だけです。すると、英国人はもう「Mr.Kita」とは呼ばなくなってしまい、私を「Mr.pardon」と呼ぶようになってしまいました。
これでは、都合が悪いと思い、私は3ヶ月間、簡単な英語の単語の本を買い勉強しました。この頃の担当がコーヒーの研究所でしたので、コーヒー畑の中で朝から晩まで声を出し、英語の勉強をし、3ヶ月くらい経過すると、英語が口に出せるようになりました。
タンザニアに入国し5ヶ月目に国連ユニセフが、タンザニアに大豆プロジェクトをしないかという話が出、たまたま、日本から派遣された私がおり、そのプロジェクトの話が進みました。入国して言葉を一生懸命勉強し始め5ヶ月目に国連の国際会議にも出席いたしました。その当時、私は23歳でした。
日本の学校教育は受験用の英語の文法を教えていますが、外国社会で実際に言葉を覚える方が簡単です。言葉(外国語)が十分に話せないとその国の人とも意思が通じません。これから海外へ行かれる協力隊員の方々は研修等で、外国語の勉強をなさってると思いますが、大変ですが、海外へ行かれても一生懸命頑張って下さい。
次に、私達が、国際協力の現場で働く時に一番むずかしいことは、例えば、企業の進出の場合、現地に工場を作り私達が持っているノウハウを使います。この場合、給与を払う雇用関係があるので、こちらのノウハウの通りに相手国の人達に行動してもらえます。ところが、私達が行う国際協力は給料を私どもが払うのでもないし、相手国は主権国家です。
特にブルガリアを除き今回行かれるチュニジア、マラウイはかつて植民地支配を受けたことがあり外国人が自分達の上司という形で命令を受けることに対してかなり敏感で、私どもが行くとイーコールカウンターパートです。
たまたま、私どもは日本人として生まれましたので、ドーナー方に立って活動する訳ですが、イーコールカウンターパートの中で仕事をしていく必要がある。また、専門家も協力隊員もかなりの部分は”人こまし”の部分がある。”ひとこまし”とは相手の国の人を乗せて、彼らが私達の言うことに乗ってきて一緒に仕事をし、出来るだけ私達のいる期間に経験してもらい、私達が去った後、彼らだけでやっていける状態を作らなければならない。
”人をのせる”ということが一番むずかしい点だと思います。派遣先の相手は、公務員が多いと思われ、給料も安く、あまりヤル気がないのが現状です。うまく行っている国だと、我々隊員が行く必要がない訳です。協力隊の任期は2年で、その間になんとか相手を”のせる”必要があり、その限られた期間では彼らとの言葉(会話)が重要になってきます。
私は東アフリカしか経験しておりませんが、彼らは悪い人は少なく、マジョリティーのいい人たちばかりです。彼らと話をしますと、ここでは通じるとか、ここでは宗教的なことがあり、絶対に日本人を受け入れない部分とかが出てきます。しかし、共通部分がありますので、そこからはいり込み、のせて行くようにしました。このようにして私は自分の仕事を面白いように感じ始め、また面白いことから自分の仕事をプロだと意識しております。
日本の場合、専門家の分業がかなり進んでいますが、開発途上国へ行きますと、私達に期待されていることは、大小に拘(かかわ)らず社長業であり、自分に指示してくれないところで、自分で発案し、相手を説得してあることを相手と一緒になしとげる訳です。自転車に乗れない人に自転車の乗り方を教え、私達は帰ってくるのです。すると、その人は一生自転車に乗れるのです。これが私達の仕事です。
これから協力隊員として行かれる方々は体に気を付けて頑張って下さい。また、相手も同じ人間です。怖(お)じることありませんので十分に活躍をして下さい。
本日はありがとうございました。