ケニア・フレンズコレッシ・カイモンにて  「りる」第3号より

     ケニア       T.N.

                     平成4年1次隊

                     システムエンジニア

 

 「何の為に此処に来たのか?本当に学校から要請が出たのだろうか?とにかく金を落す目的だけで来てる訳じゃ無い事を認識してもらわなければ!」赴任から半年の間に任地で生活する上で自信喪失になりかねない要素と山ほど出会った気がしていた。

新聞では毎月の様に日本からのドネーションの記事が載る。他の先進国が援助を控えた大統領選挙後の間も日本は援助を続けていた。 「日本はいつもナイロビにばかり寄付している。だからウエスト地区には日本人よりフィンランド人のほうが有難い。」というのが私の周りのケニア人の意見だった。

はっきり言って哀しかった。確かに此処に来ているフィンランド人は生活水用井戸掘削のスペシャリストであり、それによって救われた地域は少なくない。同地区で活動する協力隊員は人数の割に地道な活動を続け、時には各個人のやり方で、時には他のボランティアと協力し合って問題をひとつずつ解決しており、私の誇りとする所でもあっただけに他の事業団体と比較された上に、その援助の善し悪しを非難されるのは悔しいばかりだった。

見知らぬ人から「チャイナ」 「ジャップ」と呼ばれるのは当然で、酔っ払いには通りすがりに唾を吐き掛けられたり、絡まれたり、また、パートナーであるべき同僚の先生からは「学校には何をドネーションするつもりだ?学校としては新型パソコンを数台欲しいのだが・・・・・それで僕には何をくれるつもりなの?」と挨拶がわりに言われ続け、ついに 「本気で欲しいと思うのだったら、やるべき事をやった後で言え!」と怒鳴ることもしばしばであった。

 その様な毎日にほとほと嫌気がさして、思いきって日本人関係者に相談してみた。「家も与えられず、仕事も特に私を必要とする点はない。学校を変わりたいと思っているのですが?」返事は期待とは裏腹に飽くまでも個人の問題にすぎないとという事しか返ってこない。

こうなればもう学校に直訴して「出て行ってくれ」と言わせるしかない。時期を見計らって学校長、学科長を相手に今の自分がどれ程惨めな思いをしているかを延々と訴え続けた。学校長は黙って私の言う事に耳を傾けている。 「ヨシヨシこのまましゃべり続ければ、校長も嫌になり今すぐにでも僕を手放すだろう」と、ふと一呼吸置いた時に学校長が「・・・・・で、どうして欲しいのだ?」と応えた。

その瞬間はじめてハッと気づいた。 「それはボランティアである私の言う事では無いだろうか?私は自分の事しか見えず、ボランティア精神を忘れていたのではないか?周りの隊員と比較して自分が惨めだと思っていたのは思い違いで、私がやるべき事、やらなければいけない事は此処に山ほどあるのではないか?」

直訴もそこそこに校長室から逃げる様に出ていった。現在、私は同校構内でケニア人の講師と同居している。嫌なことを「嫌だな」と感じる事に変わりは変りはないが、その解決方法が半年先、いや一ヵ月先にでも見つかりそうな気がしている。

 

  副校長(中央)とその長女、および農場長



 情報だけがいつも先走りして、足がついて来ていない此の国で人間にとって不可欠な物は何か、今何をしなければならないか、それを此の国の人々と共に考える機会として一年もの残りの任期を与えられたことは私の大きな幸せと感ずる今日此の頃である。

出発の際、青木事務局長がおっしゃった言葉、「主役は現地の人達です。」が、今は軽く私の肩に乗っている気がしている。
一九九三年五月(雨期)