帰国報告         「りる」第45号より

                                                    ヨルダン   T.M
                                                             平成17年度1次隊
                                     幼稚園教諭
                                                                


『ヨルダン帰国報告』

 2年前に派遣先がヨルダンだと聞いた時、どこにあるのかさえわからなかったことが、懐かしく思い出されます。首都アンマンといった方がピンと来る人が多いかもしれません。ヨルダン・ハシミテ王国。北はシリア、北東はイラク、東南はサウジ、西はヨルダン川と死海を隔ててイスラエル、パレスチナ。中東の国です。面積は北海道と同じくらい。しかし国土の8割以上が砂漠に覆われています。春と秋が極端に短いのですが、四季もあります。人口は533万人ほど。宗教はイスラム教がほとんどで、キリスト教が6%です。

 「アッサラームアライクム。」これは私が2年間使っていたアラビア語の「こんにちは」です。直訳すると「あなた方の上に平安を」になります。とてもいい意味だと思いませんか?また、日本語だと「こんにちは」の返しはおんなじ「こんにちは」ですがアラビア語は異なります。「ワライクムッサラーム(あなた方の上にも平安を)」です。他にもアラビア語には決まり文句のようなものが多くあります。くしゃみをした時、病気をした時、髪を切った時、物を買った時・・・。それに対する返事がひとつひとつあって、そんなやりとり、言葉のつながりが会話のベースとなってくるのです。

 映画の舞台になった場所も存在します。世界遺産のペトラ遺跡。「インディジョーンズ最後の聖戦」のラストシーンはここです。最近ではオーランド・ブルーム主演の「キングダムオブヘブン」。カラク城が出てきました。残念ながら城壁しか残っていないのでCGでしたが。そして、私が2年間過ごしたのが死海のほとりにある、ゴールハディーサというヨルダン人でも知る人の少ない小さな村です。

【活動内容】
  配属先はプリンセス・バスマ・センターという王立系NGO幼稚園のゴールハディーサ園。「同僚と共に幼児教育を行いながら、新しい知識や教育方法に対する指導・助言を行う」「限られた設備・備品を用いながら、創造性豊かな新しいアイディアを提供する」というものでした。

同僚教員は経験年数こそ長いものの、幼児教育を学んだことがないため、専門的知識がありません。そこで次のような問題点が出てくるのです。知識偏重型保育。幼稚園からアラビア語、英語、数字、読み書きの授業です。保育士が無理やり手を持って書かせるといった発達段階を無視した保育がありました。

情操教育が行われていない。知識偏重型のため、もともと重要視されていません。また指導できる人がいないのも理由でした。体罰。これは一番驚きました。木の棒をムチのように使います。うるさいときは壁を棒でたたき大きな音をだします。衛生面。手洗いの習慣はなく、拾いぐい、歩きながら遊びながら食べる子が多くいました。

たのしく・・・

 気づいていないかもしれませんが子どもは遊びの中から多くを学びます。

  戸外遊び

 ブランコの順番待ちをしながら数を学んだり、思いやりをしったり。そこで同僚に遊びの重要性を伝えました。小学校から高度な授業が始まるために仕方なく読み書きをしているという実態を知り、それならば楽しく学ぼうと、遊び感覚でできる教材の提案をしました。

 朝の会で体操をしたり、マラソンを取り入れました。ヨルダン人はもともと歌やダンスが好きなので、音楽の時間はすぐに受け入れられました。楽器がなくてもたのしめる手遊びや、廃材を使った工作は好評でした。家庭でも日常的に行われているため、子どもたちは棒がないと、いうことを聞かないようになっていました。

効果的なしかり方、しからずにほめるやり方を見せたり、話し合いの場をもったのですが、「たたくのは良くないからやめる。でもいうことをきかないから大きな音はだすよ。」と、棒の存在はなかなかなくなりませんでした。

 手洗いをしなかったらどうなるか視覚的にうったえる紙芝居をつくり、読みきかせを行いました。子どもたちはというと普段から落ちたものを食べたりしていて、免疫がついていて丈夫でした。日本と同じことをしようとしてしまっていたのですが、ヨルダンで必要かどうかを考え必要なことのみを行うようにしました。

それと同僚の出産ラッシュ。これは、園長を含め、わずか3人しかいないのに3人ともこの1年で出産をしたということです。次々と産休・育休。普通の先生が園長代行になったり、先生がいなくなったり園長が産休・育休。CP(カウンター・パートといってわたしとペアになって活動する人)が園長代行を務め、代替として講師1名の計2名でスタート。予定より園児が多かったので1ヵ月後2クラスにわけ、さらに講師1名採用。

 園長が帰ってきたかと思えばCPが産休・育休・病休で不在。講師復活。

講師のうち1名がまた妊婦で、なんで妊婦を採用するの?とつっこみながら夏休み1ヶ月間講師不在。代わりに私が入ることになり。指導助言してもすぐ人が変わるため、定着しません。

おんなじことを何度も行わなくてはなりませんでした。それに比べると2年目は1クラスで教員の入れ替わりもなく、用務員さんも採用され、活動がしやすくなりました。しかし2年通して丸々働いたのは私だけという変な構図です。

 あと、家で見る人がいないからと、生まれたての赤ちゃんや、ちっちゃい子どもたちを先生は幼稚園につれてきます。授乳しながら保育する姿もよく見られました。うろうろして目を離せなかったり活動のじゃまをされたりは日常茶飯事です。ヨルダンならでは、のエピソードです。

活動しやすくなった2年目

 ワークショップや行事を行いました。

 同僚に対しては、製作・絵画のミニワークショップをしました。幼児教育を学び、専門学校を出た人というのがいないので、子どもだけでなく先生も経験が足りないのだと考えています。経験第一主義、経験の中から学ぶのが大切だと思っています。まずは先生もいろいろ経験して楽しんでもらう、そして子どもに伝えていく形が理想だと思います。音楽発表会をしたり劇を見せてあげたり、子どもたちの記憶に残る楽しいことができたのが良かったと思います。

 わたしの1年前に赴任した16年度1次隊の幼稚園教諭、ソーシャルワーカーの人と協力し、ヨルダン各地を回った様子です。

 各施設の予算状況、遊具の状態、保育形態、職員数等の話を聞いたり、ソーシャルワーカー隊員からは配属先で作った児童虐待防止のポスターを進呈。そして、園児受け入れから降園までの見学(実際、子どもの中に入り遊ぶ)。1時間ほど時間をもらい、体操、ピアニカの伴奏で手遊び歌紹介や、折り紙指導、ぺープサート「大きなかぶ」の実演、絵本の読み聞かせ等を行いました。

  戸外遊び

 任地は勿論のこと、以前から興味はあったが指導者がいないとのことでこのプログラムはどの園も好評でまた来てほしいとの声続出でした。

 そして何より思い出深いのが、11月に予定されていた20周年記念フェスティバル。日本とヨルダンの架け橋、JOCVをもっと知ってもらおうという願いから始まりました。

 直前のアンマン同時多発テロによって見合わされることになり、中止か、延期かと話し合いがもたれる中、私たち開催地責任者は「楽しみにしてくれている村人がいる」「一生懸命ステージ練習をした子どもたちをみんなに紹介したい」等の思いがあり、実行委員会の再開、実施に至りました。計5ヶ所。どの開催地も無事、大成功に終えたと思っています。

 至らないこともたくさんあったし、失敗だらけだったのですが、一度無くなりかけていたものができたことから感慨も一入(ひとしお)で、やり終えた後の達成感は大きく、同僚・村人からの感謝の言葉は温かく、やってよかったと思えたことから大成功でしょう。

  フェスティバル

 首都アンマンは日本と変わらない大都会、スターバックスコーヒーだってあるくらいです。しかし私の村はスーパー、レストラン、新聞、洗濯機、掃除機、電話、エアコン・・・他にもたくさんないものだらけです。アンマンから村に帰ると生活や文化が半世紀くらい違うのでは?と思えます。都市と地方の格差は、開発途上国の悩みです。都市の開発が進むにつれ、格差は広がるばかり。格差をなくしていくことも重要な課題です。

村の生活で慣れるまで苦労したこと

 まず移動手段。アンマンから村へは、人が集まったら出るという不定期のバスに乗っていきます。もちろんクーラーもない、今にも壊れそうなバス。最大で4時間待ちました。出ただけましで、下手したら出ないことだってあります。それでも怒る人はいません。ヨルダン人のよいところで、誰とでも仲良くなるという点と気長な点があります。初めて出会った人でも、おしゃべりを楽しみながら気長にバスが出るのを待っています。定時発車の日本では考えられないですよね。

壁 その2「異常な気温」

 死海は海抜マイナス394m 高度が上がると気温が下がる逆で高度が下がると気温は上がります。断熱圧縮効果というらしいのですがアンマンで雪が降ってもこの村で雪は降りません。

長い夏があり、5月くらいから朝から晩まで室内は40度を越えます。天然サウナ状態です。洗濯は手洗いなのですが、屋上の貯水タンクからくる水は熱湯になり、真夏にお湯で洗濯するはめになります。扇風機を回しても熱風、暑がりじゃない私でもすぐ汗だくになって、2時間ごとに目が覚めたり。赴任してすぐは体調をよく壊しました。アンマンに上がると気圧差で頭痛がしたり。体調を壊すと、精神的にも弱くなるんだなと、この時知りました。

 1年目は病気も多く、活動よりもまず生活になれることが目標でした。

壁 その3「地方ならではの問題」

 ライフラインとして確保しておくべき連絡手段ですが、我が村では携帯電話の電波が弱く、建物や家の中では使えないところが多いのです。電波が一本なのでメールしか届きません。何かあったらどうしようと、更に見知らぬ土地で、不安でした。

 あと、停電が多い(地方では普通)、電気の供給が不安定なのですが、一週間ぶりに帰ったら電気が落ちていて冷凍庫が風の谷のナウシカの地下室みたいになっていたカビ事件、御呼(およ)ばれに行ってアメーバ赤痢かランブル鞭毛虫かの疑いになり、寝込む等、いろいろありましたがキリがないので興味のある方は個人的に聞きに来てください。

 当時は生活を送る上での不安要素となっていましたが、今となっては笑い話にできるようになり、少しはたくましくなったのかなと思います。

 パンを薪で焼いている大家さん。わたしのヨルダンのお母さんです。都会ではパンはスーパーで買いますが、ここでは毎日手作りです。焼き立ては最高においしい。包装されていないのでゴミも出ません。洗濯だって手洗い、掃除機の変わりに部屋は水を流して洗い、古着で拭きます。電気を使わずにすみます。手間はかかるけど、その分愛情たっぷりです。子どもたちも当たり前のようにお手伝いをします。

こちらは、木の板を使ってシーソー遊び。よく考えたな、と感心しました。ものがなければ考える力が付きます。サッカーをするためにライン引きの代わりに石を埋めてコートを作っているのも見ました。工夫する力、発想の豊かさがあります。学校から帰ると近所の子が集まって外で遊びます。大きな子は小さな子の面倒を良く見ます。なので、高校生くらいでも男の子も女の子も赤ちゃんの扱い、世話が上手です。

夕暮れ時になると毎日必ず、外に椅子をだしてティータイム。家族のんびり過ごします。家の前を通ると「お茶を飲んでいきなよ」と次々に声がかかります。知らない人でも。それがまた砂糖飽和状態の激甘紅茶なんだけど、くせになり、ストレートティだと物足りなく感じるようになってしまいました。

 たくさん村の生活の文句も言ってきましたが、もちろんそれがすべてではありません。ゴールハディーサは低所得地域、貧困層で、村人たちは質素な生活を送っています。

 しかし物がないことが不幸せかというとそうではありません。不便って思うのは私たちの考えで、彼らは不便に思っていません。便利って、あれば便利だけどなくても大丈夫なものなんですね。むしろ便利によって失われるものの方が多いのではないかとすら思い始めました。停電になれば外に出て、のんびりティータイム。私の家は2階なのですが、下から「しととー(としこといえない)、お茶を飲もう」とお父さんが呼んでくれます。

暑い夜は大家さんたちは家族みんなで外で寝ます。また、下から「しととー、おやすみ」と声をかけてくれます。ですから寂しい思いはしたことがありません。

 ここには古きよき時代が残っているのだと思います。これはヨルダン特有のものではなく、かつては日本でも見られた光景です。ヨルダンでも電化製品の普及等で、そんな光景も確実に減ってきています。新しいことを伝えるだけではなく、既存の良いところを守っていくことも協力隊の役目だと思うようになりました。

 アンマンとかでヨルダン人と話をしていて「どこに住んでいるの?」と聞かれ、「ゴールハディーサ」と答えると大抵「あんな暑いところ?」とか「ハエがいっぱい」とか「黒くなるよ」とか、いい答えが返ってきません。

 自分の故里をけなされたようでちょっとムカッとします。だから「アナー・ゴーラニィエ(私はゴール村に住む人という意味)」と自信いっぱいに答えます。そんな時、私は村が好きなんだなと思います。そう思えるようになるまでは時間がかかりました。落ち込んだとき私を支えてくれたのは隊員仲間です。電波の入りやすい屋上に出て、携帯電話で意味もないおしゃべりをしたり。屋上から夜空・夜景を見ながらしゃべりまくっていたら、自然と心が落ち着きました。とても感謝しています。

 あと、人々のあったかさ。村中の人が家族のようにかわいがってくれました。そして子どもたちの笑顔は常に私を支えてくれています。海外に出たことで、外から日本をみることができました。日本のよさも、ヨルダンのよさも海外で過ごした貴重な経験があって気づけたことです。協力隊に参加してよかったと思います。

普段私が行っていること

 たとえば、ユニセフでカレンダーやカードを購入すれば、その何割かが世界の子どもたちのために役立てられます。

 先日、コンビニで見つけたものでは、ヘアピンを購入すれば、その半額がラオスの学校で役立てられる、というものもありました。

 私たちにできることは沢山あるのです。身近にできることからボランティアは始め、無理なく継続できることが大切だと思っています。