ジョルダン障害者まつり 「りる」第17号より
ジョルダン I.K.
平成8年2次隊
養護
僕はいまジョルダンという国にいます。
北海道くらいの国土面積の8割はひたすら何もない土漠がひろがり、北海道くらいの人口の9割はイスラム教徒です。女性はイシャールという布を頭にかぶり、男性は髭(ひげ)といういでたちの挨(ほこり)っぽい街にアザーン大音響が鳴り響く、アラブの国です。
「青年海外協力隊」という字面から受ける印象からはほど遠く、おまけに国内でも異国の印象を受ける百万人都市の首都アンマンから南へ30q、人ロ1O万人ほどのマダバという地方都市で養護隊員として活動しています。
配属された社会開発省(以下本省)下のマダバセンターは、街の中心から1kmほど離れた何もない土漠のなかにぽつんとあり、毎日のように羊の群れがセンターを取り囲んでいます。センターといっても鉄筋二階建、大小の教室六つ、十人も座れない小さな食堂が一つ、ベッドでいっぱいの居室が三つというほどの小さな建物です。おまけに相当古いようで部屋のドアの幾つかは、はずれ飛んだまんまです。ここには4〜12歳までの知的障害を持つことも20人がジョルダン各地より連れて来られ、生活しています。またマダバ近郊に住む15人のこどもがセンターのバスで通ってきています。
マダバセンターの職員と子供たち
ちょうど日本の養護学校とその寄宿舎を小規模にひとつの建物に押し込めた感じです。
当国の法律では全てのこどもは就学する義務が謳(うた)われていますが、事、その障害のために何処(どこ)にも通える場所がないこどもがまだまだいます。本省の障害者のための施設がはじめてできたのが1991年のことです。
僕が赴任した時、本省下の知的障害児・者施設には六人の先輩隊員がそれぞれの施設で活躍していました。
このマダバセンターで「授業」という形でこどもたちと関わりながら、そのひとりひとりのこどもにとって何が必要なのか、今、どういうことを「授業」で行っていけばいいのか、ということを現地職員と共に考えていくことが、僕の活動です。この点では日本の施設職員や養護学校教諭のやっていることと変わりはありません。
しかし、ここを出た後このこどもたちはどうなるのか、という先の見えない当国の状況で「授業」や施設生活での目標は見つけにくいものです。ここでもこどもは、おとなしく机に座って職員が与える課題をこなすことが、いい子、とされています。大声ではしゃいでいると、怒鳴られ、時にはしばかれたりもしてます。
一方、施設の外に目を向けてみても、こどもは、大人のその場の気分に振り回され、忙しそうです。しかし、当国アンマンのような街中でさえいたるところに空き地が投げてあります。そこではよくこども同士が遊んでいるのをみかけます。こどもはこどもだけの逃げ場所をもっているようです。
が、施設には逃げ場所がありません。ついでに云(い)うと高度に組織された社会もこどもにとっては施設のようなものでしょう。
そういった施設に仕事としてのみ訪れていると、施設職員は今自分のやっていることに何ら疑問を感じなくなるものです。それは何も当国に限ったことではありません。
施設で働くには問題意識を持つこと、常に考えることが、まず第一に必要なのです。
職員不足、予算不足等の問題もありますが、少しはここの職員が、考え、意欲を持って動いてくれれば、施設を利用している人やこどもはまだ救われるのに、との思いが妥協できた今でも払えません。問題意識を持つこと、改善に向けての積極的な姿勢、そういったものが根本になければ、ただでさえ拙(つたな)い日本の技術を提供したところで、のれんに腕押し、糠(ぬか)に釘、暁を待たずに夕陽を恋う、といったところでしょう。
しかしこの意欲や姿勢といった余りにも抽象的で曖昧(あいまい)な事柄を培(つちか)うという作業は方法論よりもまず、途方に暮れてしまうものです。ひたすらひろがる土漠です。いっそ学校教育から見直した方が手っ取り早いのではないか、いやそれ以前に家庭教育を、と、どうしようもないところに逃げ考えてしまいます。
マダバセンターの職員と子供たち
他施設の状況も同じ様なもので、一施設に外国人がひとり配属されたところで如何(いか)ほどの改善が望めるのか疑問に感じながら、また隊員個人の力のなさを思い知らされながら他の隊員も活動を続けています。
そんな障害児・者関係の施設に配属された隊員が施設内での活動の限界に気付き、集まるようになりました。僕が赴任したのは、集まった隊員が、まずこの国の福祉事情を知ろうと各関係機関から集めた資料の編纂(へんさん)をし、同時に第一回目の本省と福祉施設にいる隊員との会議が丁度(ちょうど)行われた後でした。
この国の全体的な福祉の向上を目指して!と皆土漠にオアシスを見つける勢いでした。
少し、大袈裟ですが。
第一回本省会議より福祉関係隊員は自施設内の活動にとどまらず、本省にも積極的に働きかけていくようになりました。
そんな隊員達の考えた具体的な方法は二つでした。
まずは何をおいても施設職員の研修、次に広い範囲での国内福祉イベント。
両者ともに第一に施設間、もしくは施設と地域社会との交流をねらいに据(す)えたもので、いずれは当国のスタッフだけで実施、継続していくようにとの目標を掲げています。施設間の交流を殊更(ことさら)に重視する理由は、いたるところで組織力の希薄さが、目についたからです。それは何も施設間だけでなく、こんな小さな国にある本省と各施設、更に施設内ででも否応(いやおう)無しに感じることができます。
ここでも全ての福祉施設が劣悪な状況にある訳ではないのです。全ての職員が悪い訳ではないのです。当り前ですが。いい施設や職員を参考に、まず交わる機会を増やし、互いに刺激し、問題意識を高め、何かを考えるきっかけができるだけでいいです。
福祉に国を越えた理想はありますが、現状を的確に把握し、理想に至るまでの良策を発見するには、常に考えることしか明確な方法はありません。それも外国からの押し付けや模倣ではその国の現状と乖離(かいり)してしまう為、最終的には当国の人達で理想に至るまでの道を築くしかありません。
これまでに、本省と協力し、職員が講師になり何度か研修会を開き、他施設の見学会を実施しては失敗し、昨年11月には当国でははじめての「ジョルダン障害者まつり」の開催に至りました。
ここで少しその「ジョルダン障害者まつり」なるものを紹介しておきます。
フェスティバルの様子
「ジョルダン障害者まつり」を提案したのが第一回本省会議のときですから、丁度一年経ってからの開催になります。こんなに早く開催できたのは、なんといってもお金のない本省にとってJICAという大きな組織の後楯(うしろだて)ができたからでしよう。
具体的には昨年7月から準備委員会が発足され、まず隊員側から実施要項を本省に提案したのですが、なんせ初めてのことで当国の人にはその意図やビジョンはなかなか伝わりません。準備委員会も幾つかの部署に分かれて設置され、隊員も各委員会に分かれて準備に当たりました。しかし、とうとう一回も開催されずに自然消滅した委員会もあり、急遽(きゅうきょ)新中央委員会を再編成したところ、結局メンバーは本省職員と隊員だけになり、各施設からの現地職員はうまく巻き込めませんでした。
更に開催の一ヵ月前になってもその内容は未だ明らかにならず、といった具合で、その時点で決定している事柄は開催日を国王の誕生日(11月15日)前後にしようということと、会場(体育館)のみでした。
結局内容は施設対抗の学芸会に展示会を加えたものになりましたが、開催三日前になって「展示会は面倒臭いから来年にしよう」と云われました。それでも、せめて隊員が配属されている施設からは、と展示物を持ち寄り小規模ながら無理やり一角を彩(いろど)りました。
さて、開催日11月24日、当日。
32施設の参加があり、一般人の参加も併せて約1000人集いました。
お国柄、来賓(らいひん)は豪華でした。首相をはじめ、在日本大使も駆けつけてくれました。
そのなかで各参加施設はそれぞれ趣向を凝らした衣装で唄ったり躍(おど)ったりお芝居をしたり唄ったり躍ったり、躍ったり躍ったり・・・、躍ったり。
途中主催者である本省大臣が退出するとのことで、閉会式の時間を繰り上げて催したところ、まだ発表の残っている施設が幾つかあるにも拘(かか)わらず、案の定、すでに出番を終えた施設全てがさっさと帰ってしまうという騒動も起きましたが、何とか第一回目の「ジョルダン障害者まつり」が終了しました。
当日は晴れでした。
参加している人達自身が充分に楽しめなかった事など、反省点の多々あるイベントでしたが、これがなんと来賓客には受けがよく、また次の年も、との声が終了後内外を問わず上がってきたそうです。
そこで、今、養護隊員も昨年の反省を活かせるような「第二回ジョルダン障害者まつり」を懸案中です。
長々と纏(まと)まりなく、個人的な思い込みのみを書き連(つら)ねてしまったのですが、最後にここで暮らしていてよく思うことを書き記しておきます。
特にこの国がどうとかいうのではありません。
ただここに暮らしていて日本のことを想うと日本のいいところも結構見えてくるものです。勿論(もちろん)、いい面ばかりではないし、今日本で起こっている問題を楽観視したり過小評価するつもりもありません。でも日本にいる人はそこにいることをもっと誇りに大切にしたらいいのに、と思います。どうしてもそこにいることが辛いのなら日本以外の世界のほうが圧倒的に広いことを思い出してください。
美しい国ですよ、日本は。