帰国隊員報告         「りる」第32号より

                                                    ホンデュラス   A.O
                                                             平成12年度3次隊
                                     医療機器
                                                                

  私は、平成13年4月から平成15年3月まで2年間中米のホンデュラスに赴任していました。2年間のことを自分の中で消化するにはもう少し時間が必要だと思いますが、自分なりに、活動中に経験したことや感じたことをお話します。

 まず、私が活動しました国についてご紹介します。ホンデュラスは中米のほぼ中央に位置し、北部はカリブ海、南部は太平洋に面し、西部はグァテマラ、エル・サルバドルと、東部はニカラグアと国境を接しています。人口は約650万人で面積は北海道と九州の面積よりもやや狭く、国土の65%が山岳地帯であり標高1000〜1500mの高原地帯が中央部から南部へ伸びています。

 この国を一言で表現するとなると、カリブ海の避暑地で、人なつっこく陽気なラテンの国という感じです。また、フィリピンと同じ緯度に位置していますが、私の活動拠点のテグシガルパは、標高が高く、四季の移り変わりがないことは残念でしたが、暑い日々ばかりではなく寒い時期もあり、意外と住みやすい地域でした。

 このような環境下でホンデュラス人の家庭にホームステイをしながら活動を続けました。
 次に、私がなぜ、青年海外協力隊へ参加しようと思ったかについては、自分の持っている臨床工学技士の経験を活かせて、しかも海外で暮らせるということが、とても魅力的に思えたのです。案外軽い動機でした。

 そのように言いますと、海外生活に慣れていることだろうと思われがちですが、実は海外旅行の経験もなく、内心はどうなることかと不安もありました。しかし、「やる前から出来るかどうか考えているのでは何にも出来ない。」そういう思いとともに、持ち前の好奇心が先立っていました。

さらに、海外で活動されたOBの方の活動発表会に参加したのですが、人の苦労話を聞くよりも、まず自分自身で体験しようと思い、早速応募することにしました。無謀と思える行動だと思いますが、あれこれ考えて策を講ずるより、すべてにおいて前向きに考えることが私にとって支えとなりました。

 協力隊員の職種で、教師・看護士・農業などはよく知られていると思います。私は派遣される前、臨床工学技士として病院で勤務していましたので、医療機器という職種で参加しました。臨床工学技士といいましても、あまりご存じない方が多いことと思いますが、生命維持管理装置(人工透析や人工呼吸器など)の操作及びその機器の保守・点検を行う技術者のことです。

 ホンデュラスに到着すると6週間スペイン語の勉強をし、その後、赴任先であるホンデュラス政府の厚生省営繕課へ配属されました。厚生省営繕課というと聞こえは良いのですが、そこは、一言で言いますと医療機器の修理工場といったところです。

 私の活動は、医療機器の保守・点検及び修理なのですが、その修理工場や各病院に置いてある医療機器は、私の想像を遥かに越える古さと、不清潔なものばかりであり、毎日驚きの連続でした。さらに、日本を始め、各国から援助された使用不可能な山積みの機器類にも考えさされました。

 私の1年目の活動は、本来の活動である医療機器の保守・点検及び修理ということの基本となる、ホンデュラス人技師の意識の改革が目標になりました。同僚の技士たちは電気科並びに空調科といった専門の学科を卒業しており、電気関係の知識は十分に習得しています。しかし、修理するのは人の生命を左右するおそれのある医療機器であり、その精度が患者さんに重要な影響を及ぼすことになるのです。

 そこで、技士に医療機器を直しているという自覚を持っていただくことに専念しました。

 しかし、技士たちは根っからのラテン人のうえ、今までなんの不都合もなかった人たちにとっては、こう言った理念での意識の改革となると容易なことではありませんでした。それに、同僚はみんな大男ばかりです。「なんだよ。小娘が。」という人もいましたし、言わなくても、そういう雰囲気は伝わるものです。

赴任した矢先は、会話が上手にできないものですから言い返すこともできず、悔しい思いをしましたし、みんなとのコミュニケーションも取れずにいましたので、どうコミュニケーションを取ればいいのかわからず、落ち込む日々が続きました。元来、自分から話すことの少ない私ですから、なおさらラテン感覚のホンデュラス人にとっては愛想がない奴だと思われていたことに違いありません。

 しかし、よく日にち薬だと言いますが、そういう日々を重ねるうちに、徐々に私のつたないスペイン語でも聞き入れてもらえるようになり、次第に私に心を開いてくれ始めました。

 1年目は技士たちの意識改革を始め、医療機器の修理やメンテナンス等の活動を行っていましたが、いくら修理してもすぐに壊れて修理に帰ってくる機器に疑問を抱くようになり、これは、技士たちの技術のせいだけではなく、現場における使用に問題があるのではないかと考え、2年目より病院で活動を行うことにしました。

 活動の場所は日本で学んだ技術を発揮できるようにと、人工透析室とICUを選び、そこで看護士たちと毎日の業務を行いました。看護ケアなどについては日本と随分違いはありましたが、それはその場所、場所でのやり方なので患者さんの生命に関わること以外は意見せず、私なりに患者さんに対応していきました。

す ると、時間のある時に物品の補充をおこなう・一定の場所に置くといった、簡単に出来て効率が良いと感じてもらえるものについてはすぐに取り入れてくれました。日本では、諸外国からきた人にはすぐに治療はさせないし、患者さんも拒むことと思いますが、そこは明るいラテンでよかったと思いました。

 この2年間を通しての活動の結果といいますと、技士たちに医療機器のスペシャリストという意識を持ってもらうこととともに、1週間に1人は亡くなっていた患者さんが治療途中で亡くなることがなくなったということくらいで、全くホンデュラスに貢献したとは言い難いと思います。

ただ、こういったやり方もあることを知ってもらえたことや世界にはいろんな人が住んでいて、いろんな文化があるということが感じてもらえたこと。これらは、2年間の活動の中で、いろんな方たちとふれあい、それぞれが感じてくれたことと思います。

 一方、私の方も多くのこと考えるよい機会を得られました。ホンデュラスの朝は「ブエノスディアス。ケタル?」「おはよう元気?」と言う挨拶から始まります。

 朝起きてから仕事場に行くまでに何回この挨拶をすることでしょうか。その度に立ち止まって「今日の天気」から始まる世間話。なかなか仕事場までたどり着かないし、たどり着いたとしても、また「ブェノスディアス」。仕事にかかるのが何時になることやら。毎日がこれですから。

 しかし、見ず知らずの人にでも「最近どう?」なんて気軽に声がかけられるなんて、一昔の日本もそうだったと聞きますが、素敵なことだと思いました。それからもう1つ。ホンデュラス人は根っからのラテン人。何事にも「問題ないよ大丈夫、心配ない。」ということをよく言います。

「それ問題ありありやろ!」ということも「問題なーい」って。日本人の私にとっては受け入れがたいところもありましたが、その前向きさは、自分を始め相手をも救っており、周りの雰囲気も和みます。このポジティブさに、学ぶところが多くあると思いました。

 話が変わりますが、ひと月程前のことです。高松市内で停電がありましたよね。1分近くあったと思います。私は、一人で家に居たのですが、赴任する前の私であれば、ビックリしてどきどきしていたことに違いありません。しかし、「あら停電?」って平常心でいる自分に驚きました。これもホンデュラスでの生活を過ごしたおかげ(?)かもしれません。

ホンデュラスでは、それこそ日常茶飯事なのです。ろうそくでの食事やお風呂は慣れっ子になりました。私のホームステイ先は裕福なこともあり、電磁調理器なのですが、日本のようにすぐには電気が復旧しないので、停電になると食事が取れず、それが悩みでした。お風呂もシャワーなのですが、これも断水のため、すぐに水が出なくなってしまうのです。シャンプーの途中でそういうことも少なくはありません。頭が泡だらけのまま寝ることも多々ありました。幾度もそういったことを経験するうちに、コップー杯のお水のありがたさを感じるようになりました。

 こういった不便、もちろん私が不便といっているだけで彼らホンデュラス人にとっては何でもないことだろうし、こういったことはある意味豊かさなのかもしれないと感じました。

 赴任する前は、国際協力というイメージがほとんどつかめませんでしたが、今回自分が体験してみて、物の援助と人の援助について特に考えさせられました。

 日本は多くの機械や土木工事・農水産事業の援助を行っていますがどれも機械を買って終わります。橋を造って終わります。確かに生活は便利になり、社会も豊かになったように見えます。しかし、日本は物を買ってくれる国とイメージされ、壊れてもまた買い与えてくれる。なんだか、孫にとってのおばあちゃんみたいな存在になっているように思えました。

国際協力ってそうじゃなく、相手がこうやっていきたいと思い、それから共にやっていき、援助が必要になれば支えていくのが理想と思います。しかし、そういうことを待っていてもいつになっても、変化はしません。戦後日本に上陸したアメリカのように少しは無理強いでもやって行くべきなのかなとも思いました。ただ、どちらが豊かで彼らのためになるのかを思えばやはり難しい問題だと思います。

 ホンデュラスに赴任する前は、「すごいね。」とか「ずいぶん成長することでしょう。」などと言われました。しかし、この2年間を振り返り、実際は自分で考えて行動しなければ成長はないと思いました。ただ、いろいろ経験が出来たことは事実ですし、視野を広げることも出来たと思います。本当の成長はこれから。この経験を糧としこれからの人生に生かせるよう自分の役割を探し出そうと思っています。

 また、協力隊に参加して各県出身の様々な職種・経験を得ている人とも出会いました。そこで思ったことは、香川県は少し閉鎖的な地域ではないかということです。人も街も仕事に関してもそう感じます。香川で生まれ育った私が24歳で初めて外国に行き良かれ悪かれいろんな経験をしました。多くのことを考え、考えさせられました。もっと小さいときから、香川県以外に日本以外にも目を向け、自由に考え・行動できる社会であったらと思います。

 JICAではサーモンキャンペーンというキャンペーンを行っています。大賛成です。子供に親にみんなに、海外に目を向け、飢えや病気ということから家族のありかたまで、多くのことを考えてもらえればと思います。

 最後になりましたが、活動中大変お世話になりました。おかげで、元気に帰国することが出来ました。ありがとうございました。