力強く生きる女性たち 「りる」第6号より
ホンデュラス Y.H.
昭和57年1次隊
水泳
帰国して、十年、ホンデュラスでの貴重な体験はまだ鮮明に思い出せるのですが、今の私は隊員当時とはまるで別人のような、あまり活動的ではない毎日を過ごしています。
専業主婦になると、自分の夢や希望の九割は捨ててしまっているのが現実で、よくあの時思い切って、協力隊に参加したものだと感慨深くなってしまいます。大学を出てすぐの参加で、子どもの水泳指導に行ったのですが、最近よく思い出すのは、あの頃、今の私ぐらいの年令だった女性たち、子育てをしていた母親たちのことなのです。十年前とはいえ、彼女たちの寛大な性格やたくましい生活力、そして明るい家庭には感心させられましたし、見習いたいことばかりです。
職場は、プール等のスポーツ施設やカルチャーセンター的な教室を低料金で利用できる福祉機関だったので、幅広い年令層の人達と知り合うことができました。水泳教室は子ども中心でしたが、プールを消毒する薬が輸入できなくなることが多く、よく閉鎖されてしまい、その都度私はにわかに、婦人文化教室を開くことになりました。
首都テグシガルパ 仕事していたレクレーションセンター「イスラ」全景
広告を出して人を集めてもらい、お好み焼や天ぷらを作って食べたり、折り紙や日本語を教えたり、日本紹介の八ミリ映画会や、やせるための美容体操をしたりといろんなことをやりました。今の私の方がもっときちんと教えられたかもしれないような内容もありましたが、遠い所からバス代を払って来てくれる人もあり、熱心さには驚きました。そして最後に所長が、クラスのみんなに修了書を出してくれることになり、私のクラスが一つの講座として認められた時には、彼女たちと心底喜び合ったのを覚えています。
婦人教室の修了証を持って記念撮影
プールが開くと、大人のクラスも作ってほしいと頼まれ、今まで水泳を教える女の人がいなかったので泳ぐことなんて考えられなかったと言う女性のためにクラスを作りました。これにも多勢集まって、けっこう積極的に泳ごうとする姿が以外なほどで、七十才になる人が生まれて初めて水に浮けたと喜んでくれた時には本当に感動してしまいました。
公立小学校、体育の授業
こう書いてくると本当に途上国での協力隊活動なのかと思われるでしょう。お金のかかる水泳教室に自分や子どもが通えるというのはかなり経済的に恵まれた家庭、しかも十年前ということを考えると、日本に住む今の私よりはだいぶ余裕のある奥様たちだったということになります。彼女たちの家にはたいてい、住み込みのお手伝いさんがいて、家事一切を任せ、出かける時には子守りもしてもらうわけで、陰に低賃金でお手伝いさんとなる貧しい女性たちが存在していたのです。
親しかった何人かの小学校の女教師はみんな、午前中は公立学校で教え、午後は大学の授業に出て、夕方家に帰ると夫や子ども、それに夕食までできて待ってくれていたりして、何ともうらやましい限りでしたが、お手伝いさんの姿を目のあたりにすると複雑な思いがしていました。
日本のようにほとんどが中流意識を持っているのではなく、買い物の場所や身なりで貧富の差がはっきりわかってしまうのです。あの頃の日本よりもかなり女性が高いポストに就き、社会進出が進んでいたのだけど、そんな家庭に雇われてる女性や子どもを学校にもやれない世帯の方がはるかに多いのだと気付き、協力隊活動を見直してみたりもしました。
公立学校は二部制で、午前中勉強していた子が午後から公園で新聞売りというのはよくあることで、ノートや鉛筆をカバンに入れて通う子はめったにいません。そんな小学校の先生と知り合い、体育なんてないと言えば学校へ出向いて一緒に運動し、泳いだことがないと聞けば、クラス全員をプールに呼んで水遊びしたりと、斜面に小屋が並んでいるような地区によく通って行ったものです。
道端で物売りする子供
その頃には所長(女性)とも気心が知れて、福祉施設の巡回に地方へ行かせてくれるなど、水泳以外にも活動を広げることができました。首都での仕事ばっかりだったので、ホンデュラスを知る上でも、これは本当に貴重な経験だったと思います。
思い返すとまた行ってみたくなりますが、この円高、海外旅行ブームに、どこへも出かけられないのが現実です。とはいえ、最近の米不足、水不足を乗り切る一番の担い手は主婦なのです。この主婦のパワーとネットワークの強力さをもってすれば、海外に行かなくても家庭レベルの国際協力だってできるはずだと思います。海外援助のための募金や不用品もやはり主婦の協力を得ないと集まらないのですから。
ホンデュラスで出会った女性たちのたくましさと情熱に負けないよう、私も行動する勇気を持ち続けたいと思います。最後になりましたが現在派遣中の皆さん、いろんな人との出会いを大切に、元気でがんばって下さい。