『ホンジュラスで学んだこと』
「りる」第42号より
〜青年海外協力隊活動経験を通して〜
ホンジュラス N.H.
平成15年度2次隊
小学校教諭
〈ホンジュラス概要〉
「ホンジュラス」と聞いてどのあたりを思い浮かべますか?
中米に位置し、同じ日にスペインから独立した中米5カ国(北からグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ)のひとつです。北はカリブ海、南は太平洋に面しており、広さは日本の3分の一弱で、北海道と九州をあわせたぐらいの大きさです。人口は約700万人でヨーロッパ系・先住民混血が90%で、アフリカ系は2%。日系人は南米にはたくさんいますが、中米にはほとんどいません。宗教は主にキリスト教で、公用語はスペイン語です。
主な産業は農林牧畜業のコーヒー、バナナなどを輸出しています。人の雰囲気はおおらかで、時間や準備など細かいことにこだわらず、また大きな行事でもぶっつけ本番でうまくスピーチも演劇もこなしてしまいます。そしていつも近所のあちこちから大音量でラジオ、音楽、宗教番組などが流れており、お祝い事には夜まで楽しく踊るような、陽気な雰囲気です。
〈青年海外協力隊活動体験〉
ホンジュラス(以下ホ国)で、私は基礎教育総合強化プロジェクトの小学校教諭隊員として、他職種の隊員と、また対象地域の教師と連携を図りながら、「教育環境の改善を通して留年率・退学率を減少させる」ことを目標として活動しました。
このプロジェクトは、初等教育修了率100%の達成を掲げたEFA−FTI計画(Education For All)から作られたもので、ホ国の初等教育の現状をみると、入学時点での就学率は87.1%と高く、男女格差もほとんど無いのですが、卒業時点での修了率は依然として低く(68.5%、2000年)、入学後1度も留年せずに正規の6年間で初等教育を修了する児童は全体の31.9%のみとなっています。そしてホ国の中でも留年率がもっとも高いエル・パライソ県の2地域(グイノペ、オロポリ)を対象にしました。
このプロジェクトの特徴として、隊員が現場を見ながら、現場の人が主役となり行える、継続できるものを、という地域住民参加型のプロジェクトです。
まず2地域で第1期(2001〜2005年)効果のある、成功する活動を探ること。第2期(2006年〜)県レベルに広げ、第1期で採用した活動の汎用性をみること。そして内容の修正。第3期全国レベルに普及すること。という大まかな流れで、私は第1期の後半から第2期の3ヶ月活動してきました。
第1期に総計40あまり活動を行った中で、
1.取り組みやすい
2.汎用性がある
3.効果が期待できる。
という3つのポイントを元に話し合い、5つの活動を選びました。
(1)朝学習
(2)学級経営
(3)学級文庫(絵本)
(4)教材支援(幼稚園)
(5)授業参観
そして他地域で普及させるために「マニュアル」を作成し、見て分かる、取り組める、読みやすい、見やすいもの(イラストつき)にこだわり作りました。名前も基礎教育総合強化プロジェクトととても長かったものをProyecto Educativo Paraiso(エル・パライソから発信される教育的プロジェクト)し、略としてPROEPAとなりました。
今現在も第2期の県レベルで、内容の改善や汎用性を後任の隊員たちが進めています。この隊員レベルで作り上げていくプロジェクトに参加し、自分たちで作り上げていく楽しさ、地域、県、国など組織を巻き込んで活動するダイナミックさなど、このマニュアル完成とともに県レベルにまでもっていけたことに誇りを感じます。
〈ホンジュラスで学んだこと〉
まず「日本のよさ」をさらに感じました。特に治安がよいこと。夜に独りで歩いている人が沢山いるし、電車の中で棚の上に、いかにも高そうな皮のセカンドバッグなどを置き、座席で寝ている。そして目的の駅に着いたときには、ちゃんとそこにある。またレストランの出入り口にある傘置き。これもそこに置いたままで奥に入っても、帰るときには当たり前のようにそこにある。と以上のように、例を挙げるとこの他にも、たくさん治安がいいと感じることがあります。
また清潔さ。日本では当たり前ですが、食品はショーケースなど、取りやすいように並べられ、さらに袋に入っています。ハエやアリがいるような売り物を見たことがありません。少し余談ですが、個包装に関しては「過剰すぎるのでは」と感じることがあります。お菓子でも封を開けると、仕切りがあり、クッキーなどくっつかないものでも一つ一つ小さいパックに入っている。食べ物でなくても、靴下など透明ビニールにはいっていて個包装がされている・・・。これは帰国して1週間も経たないうちに、私の部屋のゴミ箱がいっぱいになり、感じたことです。
その他に、任地の教師たちと共に働く中で、最初は思うように進まないと悩んでいたことが、実は日本のものさしで考えていたためであったことなど、言葉では理解しているつもりでいた「異文化理解」を改めて実感し、学んだ2年間でした。
また対象としていた地域には電気がなく、公的な交通手段もないため、テレビや新聞など全くないところでした。今の日本では当たり前のように、それらから情報を集め、さらにインターネットや携帯電話で、どこにいても情報が得られる社会です。しかしそのような何もない地域でも「今、首都へ行く道がストライキで封鎖されて通れない」などの情報を教えてもらったことがあります。
この情報は人づたいにこの村まで来たのでしょう。このとき「普段からの村の人たちとのコミュニケーションやつながりが大切だ」と感じました。日本でいると、特にこういうつながりがなくても情報を得ることができますが、やはりその情報を扱い、操作するのは「人」。こういう社会だからこそ、直接人と人とのコミュニケーションやつながりを大切にしないといけないのではと感じています。
以上の私の体験談や写真から、貧しいところで、大変だったのだろう。という印象をもたれるかもしれません。しかし私は今、日本に帰ってきて生活する中で、本当の豊かさや幸せとはなんだろうと考えることが多くなりました。
最後に、私がこの村でいたのは2年間でしたが、買い物に行く道々で名前を呼ばれ、あちこちで寄り道、立ち話をしながら帰宅、また夕暮れ時には家の前にいすを並べて、涼みながら家族や近所の人とおしゃべり、家族のように暖かく接してくれ、笑顔にあふれる村の人々の映像を見ていただき、私の体験談を終わりたいと思います。