二年前、私は協力隊員だった 「りる」第9号より
ガーナ Y.O.
平成3年1次隊
写真
某製菓会社の「ガーナチョコレート」もパッケージのデザインが変わり、時の流れを何となく感じさせられる今日この頃です。大学卒業後に日本で過ごす時間が、やっと海外でいた時期に追い付こうとしています。職場で「お客さん」として顔を合わせる高校時代の同級生のほとんどが、いいお父さん・お母さんになってしまいました。
「いやあ、Oは全然変わっとらんのお」と言う彼の眉は、あの頃に比べて三〇度程下がっていて、横には小さい子供を抱いた奥さん(彼女もまた、同級生であったりする)がニコニコしている、という具合です。そんな彼らに、「このコロッケ揚げたてじゃけん、買っていってくれや」と言うのが、今の私です。
帰国直後から現在にいたるまで、協力隊時代の話を聞かれることがあるが、「向こうで何しとったんじゃ」から始まり、「やっぱり日本が一番いいじゃろう」で終わるパターンは全く変わっていない。以前は「いや、そんなことはないですよ!」等と、相手の期待を裏切るような言葉ばかり返していたが、今は、「えぇ、まぁ・・・」という感じで受け流すことができるようになった。
もっとも、私がお世話になった国(ガーナ)が、あまりにも「(マトモナもな)人間の住むような場所ではない」的な言い方をされるのが気に入らないので、最近では「自殺者や失踪(しっそう)者が年間に一万人単位で出ている日本だって、立派な戦場ですよ」と、答えることにしている。
私は、大学在学中に協力隊を受験している。南北問題や国際貢献という文字は知っていたが、興味は「ゼロでない」程度にしか持っていなかった。協力隊参加を志した最大の理由は、「面白そうな仕事だから」。説明会に参加し、資料をもらって読んでみると、自分の趣味・大学での専攻・授業等が直接ではないにせよ、使えそうだったからに他ならない。
実際に、大学で勉強したことは非常に役に立った。しかし、現地での活動が進むにつれ、組織内での立ち居振る舞いを知らない、つまり「社会経験の無さ」という問題が浮き彫りになるのには、そう時間はかからなかった。
テクニカル・フィールドでは充分にやっていけても、ソシアルフィールド、つまり社会や組織の一員としての行動が心許ないのである。そのせいか、「采配」が振れない。インストラクターという立場にありながら、人が使えない。組織が動かせない。交渉能力がない。隊員活動が過去のものとなった今でこそ書けるが、当時はかなり真剣に悩んでいた。
同僚の家へ遊びに行ったO隊員
ガーナを去る日、空港に同僚がたくさん来てくれて、一緒にビールを遠慮なしに飲んで、騒いでくれた。少し、救われた気がした。結局は何を「協力」しに行ったんだか分からないような隊員生活だった。実際、日本からやって来た、ということを差し引いても、職場で年がいちばん若かったということで大事にしてもらっていた。そんな彼らに、しっかり甘えっぱなしの二年間であったような気がしてならない。日本帰国後、多くの人にお世話になり、今の会社に拾ってもらい、働き始めてからそのことを痛切に感じている。
ガーナでの配属先は、「ガーナ警察刑事局本部 犯罪捜査課 鑑識検査部 写真部門」。そして、私に要求されていたのは「犯罪捜査に必要とされる鑑識写真の技術力向上と設備の改善」であった。職場での協力隊は私で六代目。ゆえに同僚は基礎知識に関しては取得済みであったので、ひたすら実践である。
有効期限の切れた印画紙、市内の写真屋から無理をいってもらってきた薬品、ひたすら掻(か)き集めての暗室作業だった。公的な仕事には予算が付くが、練習には付かない。時間・予算とも制約の多いなか、皆がんばってくれた。日本国内でも普通にはやらないカラー写真の手処理でさえも、月二回のぺースながら約一年で大体のところをこなせるようになっていた。それと並行して、壊れていた器材の修理を進めた。
実際のところ、この修理業務が最も喜んでもらえたようである。市内の写真屋はもとより、電気屋・ジャンク屋・メガネ屋・果ては車の修理屋まで回って、同僚たちと一緒に部品を探しにいった。なにせこの「写真」という業務、カメラが動いてくれなければ話にならないという、気合いや情熱より器材の優先順位が高い職種である。
考えてみれば、カメラを持っている時間より、精密ドライバーやハンダごてを握っている時間の方が圧倒的に長い変な「写真隊員」であった。ほとんど器材が満足に動くようになった時には、任期も残りすでに半年を切っていた。「そんなの、新しい器材を入れれば済むことじゃないか」という声も聞こえてきたが、私は敢えて地味な方向を選んだ。
フラッシュメーターの使い方を解説
それまでは器材のメンテナンスに無関心だった同僚たちが、少しづつ器材に対する扱いが丁寧になって行くのを見るのが嬉しかったからだ。それは、必然的に技術の向上をもたらす。大袈裟なようだが、そう信じていた。
結局そういう「現場仕事」に終始し、予算折衝や交渉・計画立案といったことは、全くやらずじまいの二年間だった。こんな私を快く受け入れてくれた同僚達に、そして機会を与えてくれた「青年海外協力隊」に、ただただ感謝するよりほかにない。
「お前は日本製なのに燃費が悪い(よく食べる)なあ」と言っていたメシ屋のオバチャンや、「どうやったらそんなに真っすぐな髪の毛になるの」と真剣に聞いてきた露天の店番の女の子、「お前の国ではマリワナはいくらぐらいするんだ」と聞いてきた護送中のラリッた兄ちゃん、私は酒が入ると真っ赤になるので「お前は赤信号だなあ」と笑っていた飲み屋の主人、カンフーのマネをしながら「トヨタ〜・ニッサン〜」を連呼する変なおっさん、日本人と韓国人・中国人を眉毛の角度で見分けるという「自称」芸術家、一度肩を揉(も)むと、ヤミツキになってしまった同僚。みんなうまくやっているだろうか。