帰国隊員報告 「りる」第29号より
エティオピア Y.M.
平成11年度3次隊
電気機器
私は、東アフリカの内陸国エティオピアで、平成12年4月から平成14年4月にかけての二年間、電気機器の隊員として同国で活動してきました。
エティオピアは、マラソンで有名なランナーを数多く輩出してきた国だと一言えば、おそらく多くの方が理解できると思います。本当にその通りで、首都アディスでは朝早くから多くの市民ランナーが、次の主役は私だという気持ちで走っているのを見ることができます。今度のアテネ・オリンピックにも、優れた選手が出てくる事は間違いないと思います。
まず、私の協力活動についてお話ししたいと思います。私に対する要請内容は、電気、それも「シーケンス制御に掛かる技術と知識を求める」とあり、てっきり私は自動制御の講習をするものだとばかり思って、派遣しました。
けれど、エティオピアに行っていきなりの先制パンチをもらいました。派遣先となる学校に挨拶に行くと、校長に「こんな人(こ、こんな人?)頼んでない。私が頼んだのは、機械と建築の人だ。」と言われました。そんなはずはないと、調整員がまっ青になって調べると私を要請した校長から、新しい校長に変わったせいで、電気の隊員が行く事が理解されていなかったのです。
ちなみに追加して言うと、のちの機械と建築の隊員も含めて、私の派遣先の隊員3人は全て「いらない」と言われました。厳しく言うと、JICAと現地との意思のずれがあったのでしょう。
しかし、私は感度が鈍いせいか、新規の隊員でしかもいらないと言われながら、何も気にする事も無く、それどころか「なんかラッキーかも。面白いかも・・・」と思っていました。理由は、自分のペースでやりたいことができると思ったからです。
真剣に受け止めないといけない現実も当然ありましたが、(本当に二年間できるのか?という)それを逆手に取れる面白さもやっぱりあると思いました。
調整員に「日本人は二年後に成果の出るボランティアなんだよなあ」と優しくなぐさめられましたが、それとは関係無く、私はすでに二年後を見ていました。授業風景
私の協力活動は、援助の導入無しでは語れません。草の根無償資金援助、隊員支援経費、JICS少額資機材援助、の3つの援助の承認を次々と取って、ようやく自動制御クラスを立ち上げる事ができました。報告書も少し多く書かなくてはなりませんでしたが。
援助を導入しなくてはならないと考えたのは、学校の施設を一目見たとき「壊れていて使えない。私も知らない。誰も直せない。」と分かったからです。旧ロシア製の17〜18年前の施設はほとんどが故障しており、代用品も今や入手不可能で、その上よくよく見ると、
自動制御に関する装置などどこにもなかったのです。
援助は考え様によっては、少し危険が伴う協力活動です。JICAも長年の経験からかなり反省していて、私がやろうとしたちょうどその時は反省機運と重なっていて、反対意見の中で申請は大変でした。
けれど、私の援助に対する考え方ははっきり決まっていました。その為少しの迷いもありませんでした。新しい技術への取り組みは、実技、実践に勝るものはありません。それによって、改めて次の技術にシフトしていけるのです。それには装置がどうしても必要でした。
最終的には、テキストを作成し、信号機などのデモ機も完成して、二年前とは大違いなほどの送別セレモニーを行われるまでになりました。この会場入口に、その写真を貼ってあります。
協力隊員は親善大使でいいと言われることも多いのですが、やっぱり一つの成果が出る事の方が、何より嬉しいものです。
反省点も幾つかあります。時間の使い方が、エティオピア時間に流されてたくさん無駄にしたように思います。カメルーン時間と言うほどではありませんが。彼らのプライドの高さに腹を立てられる事もよくあリました。でも、エティオピア人の悪い事を引きずらない気質に助けられたと思います。
さて皆さんは、家電製品について、OSAKAとかSUNNYと言ったメーカーをご存知でしょうか?これらは当然海賊品なのですが、エティオピア人の間では、広くメイド・イン・ジャパンとして、知られるメーカーです。本当はどこで造られているのかは知りませんが、安価だと言う理由で、多くのエティオピア人が飛びついて買っていくほど、家電製品に憧れています。
首都に限った事ですが、彼らの生活は、私が想像していたよりも強く先進国の影響を受けて、進んでいました。そして、家電製品、コンピューター、新型の乗用車など、急激な変化に戸惑っているようでもありました。つまり、修理技術がまったく追いついていかないと言う事です。エディオピアも地方に行けば、1000年も昔のままの生活が今も営まれているのですが、それも時間の問題でしょう。
実を言うと、これも赴任して感じた事ですが、私の学校では、半分以上私たち隊員を、修理人としての要請を目的にしているようでした。たしかに、私も幾つかの機械を直しましたが、それよりも、基礎的なことがらを妥協せず、自分の言葉で教えていく、日本人技術教師の姿は、他の学校でも十分な参考になると、エティオピアの教育省が評価してくれるようになりました。彼ら自身の力で、修理が行えるようになる事を目指して。技術を伝える地道な努力は、これからもゆっくりゆっくり、でも確実に続けていかなくてはならないでしよう。
さてもう一つ、私が考えさせられた価値観の違いについてお話ししたいと思います。エティオピアの主食は、インジェラという酸っぱいクレープのようなパンです。これで、ワットと言われるスープを包みながら食すのですが、正直言ってあまり美味しくはありません。スープの上にも底にも固まった油は、見た目にももちろん胃にも強烈です。食事をしていると言うよりも油を飲んでいるのかと、錯覚を起こすほどです。
でも、私たち日本人もお米を主食として、甘いおかずをかき込んでいるのは、同じ事です。砂糖を料理に入れて使う事は、エティオピア人には信じられない事です。実は私が驚いたのは、このインジェラが病院の病人食としてメニューに入っていた事です。この事を知った時、私は、彼らははるか別の次元の価値観を持っているのでは、と、途方にくれそうになりました。
言葉とか宗教とかで遠い世界の国を感じる事は十分に考えられました。日本にいる時からそれは分かっていたことです。しかし、体が弱っている人間の食事がインジェラというのは、さすがに想像していませんでした。最後まで、インジェラを食べて生きたい。エティオピア人にとっては、インジェラを食べられる事こそが幸せだったのです。
私たち日本人の信じている価値観は、全てではないのです。価値観は、幸せと強く結びついているべきなのです。その事を、私は学んだように思います。
最後になりましたが、活動を支援してくださった青年海外協力隊を育てる会の皆さまをはじめ、多くの方々に感謝したいと思います。ありがとうございました。