十三年たって          「りる」第7号より

     チュニジア         T.N.

                     昭和56年2次隊

                     助産婦

 

 怖いもの知らず、十三年前の私はそれで協力隊に参加できたのかもしれない。助産婦学校を卒業したといっても、総合病院にいれば年間六十例ぐらいのお産を取り上げるのがせいぜい。応募には三年間の実務経験が必要ということであったが、それはなんとかクリアしていた。しかし、まだ分娩の怖さも、産前・産後・新生児のことも十分知らなかった。あの頃の自分を四十五才になった今振り返ると、本当に知らなかったから行けたのかもしれないと思う。それくらい今の私から見ると頼りない助産婦であったのだ。

 しかし、前に進むひたむきさは、一杯あった。職場の五十才すぎの庶務課長に協力隊参加の意志を伝えに行くと「何のために行くのか?箔を付けるために行くのか」といわれた。私は、何のことか一瞬分からなかった。ボランティアに行くのにそういうふうに考える人もいるのだと始めて知った。

 北アフリカのアラブの国、チュニジアにいった。何の身構えも無く行った。先入観を持っていくことが嫌だったので先輩からの報告書も、ろくに読まなかった。

 言葉もできないし、仕事も分からないし、砂漠の国と言うのに夜はムチャ寒いし。現地の病院から支給してくれた毛布にくるまってオー寒い。何日もしてやっともう一枚の毛布が貰えた。隣に住む大家さんの娘さんは前任の隊員を知っているとかで何とか面倒を見てくれようとするがこちらは言葉が皆目分からない。クスクス(代表的なアラブ料理)を差し入れしてくれ、お皿を返すのを忘れていたら取りにきたものの、皿を返せとフランス語でいわれても何のことか全然分からない。プラ、プラ、と丸い輪を作って一生懸命説明している。彼女は二度と料理を運んではくれなかった。

 でも、その大家さんは何度も招待してくれた。

 チュニジアの南の田舎では教育もあり、お金もある家だったようだ。大きなお皿にヤギの頭を丸ごとのせたクスクスをごちそうしてくれた。端の方をおヤギ様のごキゲンをそこねないあたりのクスクスを、いただいた。

”アレーモンジュ アレーモンジュ”(たべなさい たべなさい)と、とても気のいいご主人だった。

 協力隊に参加するのに唯一の条件は、何でも、誰とでも食べられることだと思う。チュニジアの女性はすごく太っていて良く食べる。私もどんな境遇のときにも良く食べた。初めの頃は、緊張とチリペッパーのせいでよく下痢もした。それでもからいのはチュニジアの気候と良く合っているのだろう、とてもおいしかった。羊の肉の入ったクスクス、マカロニ、スパゲッティ、カスクロット(フランスパンにチリソース・ツナ・パセリ・タマゴ・オリーブの実などがたっぷりはいったサンド)、ブリック、サラダチュニジアン。

 病院の当直をしながらも、太った看護助手のおばさんが作ってきてくれる家庭料理は、ヤギや羊の肉が入ってピリリと辛くておいしかった。ときには砂漠の国ならではだろう、ラクダの肉も料理してくれた。ラクダはあまり上等な肉ではないらしい。

 食べる事、遊ぶことを書いていると、つきない。

 私は、チュニジアの助産婦と一緒にローテーションにはいって、日勤をしたり夜勤をしたりした。当時の分娩記録をみると四百近いお産を取り上げていた。たいして経験もなくいったわけだから、最初の何か月間はチュニジアの助産婦にいろいろと教えてもらった。その国なりの処置のし方もある。チュニジアの助産婦はエリートである。フランスの植民地であったためフランスの制度と一緒らしい。三年間の専門教育を受けている。

 日本では、ほとんど医師が立ち会うが、正常分娩であれば助産婦だけですます。私も、日本では医者がするようなことを随分やらせてもらった。貴重な経験である。

 赤子を抱き上げるN隊員の心底からの輝き



 わずか二年の協力隊生活であったけれども、十年間にも余りあるほどの経験と出会いであった。あとから思えば、もっとこうしていれば良かった、あれもすればよかったと思うことがいっぱいあるけれども、でもあの時はあれで精一杯だったのだ。

 十三年経った今も、あいかわらず助産婦として香川県で働いているが、赤ちゃん誕生と言うおめでたいことばかりでもない。時には悲しい結果に終わることもある。チュニジアの人々のイスラムの教えに基づいたおおらかな心になぐさめられることもある。協力隊の活動は結果ではなくて私自身にとっても始まりであったようだ。何年経っても鮮烈に思い出されるさまざまなことを、これからも大切にしたい。

 誕生に立ち会った子のアフターケア 家庭訪問