ブルガリアでの日々(V)      「りる」第21号より

     ブルガリア       S.I.

                     平成9年度2次隊

                     日本語教師

「パーン!パンパン!」 1999年1月1日、新年は爆竹の音と共に始まりました。12時になったとたん、どのアパートからも大量に爆竹が投げられ、ものすごい音が30分以上も続きました。これがブルガリアの新年です。去年初めてブルガリアで新年を迎えた時は、「まさか銃撃戦?」とビックリしましたが、今年は爆竹と知っていたので平気でした。

銃撃戦とまでは行きませんが、アパートが何階であろうといっせいに爆竹を投げるので、この時道を歩いていたら確実に大火傷になっていることでしょう。危ない危ない。

 この爆竹、子供による事故も少なくなく、政府は売買を禁止したそうですが、国民はそんなこと全くおかまいなし。例年どおりのにぎやかな年明けとなりました。

クッキーを作っているところ。この人力マシーンで
クッキー生地を絞り出します。

 

私は年末から年始にかけてずっとブルガリア人の友人のところへお呼ばれしていた(住みついていたとも言う)ので、ブルガリアにある普通の家庭のいろいろな習慣を見ることができました。ブルガリアでは年末大掃除もおせち料理ももちつきもなく、普段と同じように大晦日を迎えます。ちがうことと言えば、新年に向けてお母さんがごちそうを作ることくらいです。

新年を迎えると同時に乾杯、食事をとります。この時、どこの家庭でもバーニッツアという丸くて大きなチーズパイを作って食べます。このパイが丸いのにはちゃんと理由があって、オーブンで焼く前に「幸運」とか「健康」とか書いた小さな紙切れを中に入れておきます。そしてこんがり焼けた後、テーブルの上でぐるりっと回し、自分の前に止まったバーニッツアの中の紙で今年を占うのです。日本で言う「おみくじ」のようなものでしょうか。

私には「お金」が当たりました。友人はいたずらして「なまけもの」と書いた紙を入れ、それが自分に当たってかなり怒っていました。自業自得。

 そして1月6目、ここの家族に仲間が一人増えました。友人のお姉さんが男の子を出産したのです。3900グラムの元気な赤ちゃんで、お母さんは産んですぐにお家へ帰ってきました。ブルガリアの赤ちゃんは、初めはみんな青い目をしていて、数週間経つと両親の遺伝の影響で黒くなったり茶色くなったりそのままだったりするそうです。不思議。

それから、聞くところによるとこの国には「立会い出産」というものがなく、産む時はお母さん一人でがんばるそう
です。「なんで?」と聞くと「立会いなんかしたらブルガリアの男性は恐怖で失神するからだよ。」とのこと、うーん、一見スーパーマリオのような逞しい人もいるブルガリア人男性、案外デリケート(?)なのかもしれません。

 ここでブルガリア人男性について少し書きたいと思います。私の第一印象は「濃いー!」先程も述べましたがスーパーマリオ風から美術室によくある彫刻風、金髪青い目の人まで様々、でもみんな目鼻立ちくっきり、まつげバチバチです。幼い頃から「レディーファースト」というものを習うらしく、ドアを開けてくれたり荷物持ってくれたり電車から降りる時には手を貸してくれたり、とても親切です。

先日、女の子より先にお店に入ろうとした男の子がお母さんに、「男の子はドアを開けて、最後に入るものよ。」みたいなことを言われていました。日本と違う・・・と思った一瞬でした。

同じアパートに住んでいる子供

 けれども、基本的に子供はどこでも同じ、好奇心いっぱいでとてもかわいいです。歩いていると向こうのほうで「あれ、中国人かなあ。ブルガリア語わかるのかなあ。」みたいなことを言ってよく騒いています。興味はあれども話しかける勇気無し、といったところでしょうか。たいていの場合そのうち子供達の中で好奇心に負けた一人が、「ねえ、今何時?」と聞いてきます。

この国には時計を持たない人が多く、道端で時間を尋ねることは一般的。子供達も考えています。時間を聞くことで私のブルガリア語能力を測ろうとするのですから。そこでブルガリア語知ってるもんねー、とおもむろに腕時計を見、自信たっぷりに「3時だよ。」と答えると、向こうの子供たちは「わっ、プル語しゃべってる!」とまた大騒ぎ、それからいろいろおしゃべりが始まることもあります。

相変わらず難しいブルガリア語ですが、子供と話すとやたら通じる気がするのはやはり同じくらいのレベルだからなのでしょうか・・・。先日近くの幼稚園で「折り紙教室」なるものをしましたが、その時も子供達とあまり困ることなくたくさんおしゃべりすることができました。

 最後に授業について。以前、「自分の店が忙しいから」「結婚したから」という理由で授業にあまり来ていなかった例の学生、今度は「息子が産まれたから」と言ってお休みです。ちゃんと理由を言いに来るところがなんだかかわいいのですが、彼が来るたびにビックリさせられっぱなしです。そんな彼をはじめ個性あふれる学生達、授業をしていつも感心するのはその熱心さです。

これから先、経済的にも彼らが日本に来るチャンスは少なく、それ以前に卒業すればもう日本語を使う機会は全くないかもしれない、それなのにきちんと授業に出てきて、居眠りもせずに一生懸命ノートをとっている学生達、本当にありがとうと言いたいです。しかも教科書もなく、(いつも私がコピーを渡している。)辞書さえ手に入らないこの環境、(出版自体されていないので、この国では古本をあたることもできません。)たくさんの参考書や辞書や問題集に囲まれものすごく賛沢な環境にありながらも、やる気の問題で全く勉強しなかった私の英語を思うと、とても恥ずかしいです。

 今年6月、初めてこの大学から卒業生がでるわけですが、卒業後、彼らに日本語を使う機会が全くないとしても、何かしら、彼らの記憶の中に「日本」という国が残ってくれたらなあ、と思います。まだまだ続く協力隊活動、教師も学生も楽しめる授業を理想に、マイペースにやっていこうと思います。それでは、また。