黄金のベンガル        「りる」第7号より

     バングラデシュ         A.K.

                     昭和59年2次隊

                     溶接

 

 任地「バングラデシュ」から帰国して丁度八年になります。今頃バングラデシュの季節は乾季で、毎日晴天の日が続き朝晩はかなり冷え込みます。日本の梅雨の時季、真夏の炎天下、そして初秋、この時季が来ると特にバングラデシュを思い出します。

 面積は北海道の一・八倍、人口一億、一九七二年に独立した国で以前は東パキスタンでした。国土の大半は大河でできた三角州のため平地で丘とか山があるのは、極限られた地域です。そのため石を見ることがなく、代用品としてレンガがつかわれています。この国の九八パーセントの人がイスラム教徒です。

  バングラの首都ダッカ官庁街の道路。人、力車、自動車で溢れている


 協力隊の駒ケ根訓練所で三ヶ月、ベンガル語や国の事情その他諸々、ある程度理解し備えたつもりでしたが、ダッカ空港に降り、事務所の人の出迎えをうけ空港を出ようしたとき、十人程だったと思いますが、乞食がワッと寄ってきて「ポクシーシー、ポクシーシー」としつこく追ってきます。

あたりまえですが顔は違いますし、正直言ってきたない。これにはびっくりしましたが、出迎えにきてくれた人たちが何事もないような顔をしていたのにも驚きました。二年の任期中外へ出るとこの「ポクシーシー、ポクシーシー」から逃れられることはできませんでした。空港から出て見た光景は、人、力車(人力車と自転車を合わせたもの)牛、やぎ、荷車、自動車が渾然一体となって道路を行き来し、音、匂い、景色、何ともいえない、とんでもないところにきてしまったというのが第一印象でした。

 バングラデシュ第二の都市チッタゴン、ここのチッタゴン職業訓練校溶接科に配属され住居は公務員宿舎でした。溶接科の生徒は十五人で、十五才から十八才くらいの人がほとんどですが、どうも年齢のはっきりしないひともいます。日本のような戸籍がないので、親しか知らないとのことでした。生徒は非常に従順でまじめでしたが、卒業してもほとんど就職先がなく、ここの生徒だけでなく、多くの人が外国で働くのが夢のようです。

 職業訓練校(溶接)、K隊員と生徒たち(インストラクター含む)


 四月二十九日昭和天皇の誕生日、「バングラデシュオブザーバー」の一ぺージをつかって特集をくんでいました。非常に親日的な国で、国家予算の六〇パーセントが日本の援助だからと言ってしまえばそれまでですが、バングラデシュにノアカリ県というところがあります。ここは特に低湿地で海水が混じるので作物がとれず、国内でも格別貧しいところですが、ノアカリの人たちは都会へ出て商売をして成功している人が多いことで有名で、
そこで、ノアカリの人を「二番目の日本人」(デゥイノンボルジャパニー)とよびます。

賢い、知恵がある、ということらしいのですが、ずる賢い、という意味もあるらしいのです。バングラデシュという国を一言で表すと「混沌」(こんとん)です。死にそうな子を抱いて物乞いをする母親、ワイロを要求する警察官、洗濯物や靴を盗む近所の子供、ニワトリを家の中で飼う階下の住人、なんでも欲しがる校長先生。政治も経済も人々のすべてが混沌とした社会です。そこから学んだことは、人の生きる強さだったと思います。

 昔からこの地域を「ショナールバングラ」と言います。「稲穂がみのる黄金のベンガル」と言う意味です。のどかな風景の田舎と騒然とした都会、そこに住む一億の人口。もし次また行けと言われたら、すきじゃないけどバングラデシュを選ぶような気がします。

 友人宅に招かれ、バリ料理ご馳走になる。